フラミンゴ渋滞

George Rodger

第二次大戦後に「ナチスの美神」としての象徴的な罪を背負い、コクトーとの共同制作を含むすべての映画の企画を握り潰されて、中傷と誹謗の泥の中を這いずり回っていたレニ・リーフェンシュタールを南方の灼熱の大陸に招き寄せたのは、アフリカの雄大な自然の中で狩りに明け暮れる日々を記したヘミングウェイの小説だったという。


しかし、当地の奴隷売買を活写するはずだった映画『黒い積荷』の製作は、呪われたかのように立て続けに不幸に襲われて雨季にずれ込んでしまい、とうとうスタッフの間に熱帯病が蔓延するに至って打ち切りを余儀なくされた。失意のレニはナイロビの病床で偶々手に取った雑誌のページに、後にマグナムの共同設立者となるジョージ・ロジャーの黒人アスリートの写真を見出して、卒然とカメラを持ってヌバ族の棲むスーダンへ旅立つことを決意する。そして、その地で撮ったフィルムのうち半分以上を郵便事故で失うという不幸に見舞われながらも、ヌバ族の原始の裸身が躍動した「肉体美」の写真はやがて陽の目を見て、レニは曲がりなりにも写真家への転身に成功するのである。


しかし、あのとき瀕死の病床にあったレニが、同じ写真家による「強制収容所のあったベルゲン=ベルゼンの廃墟を1945年に歩く少年」の写真を見ていたとするなら、30年代には女性として初めて山岳映画の監督業へ向かい、その直後からはナチ党のプロパガンディストとして「民族と美の祭典」へ向かった彼女は、次なる没入対象として何に駆り立てられ、どのような創造へ向かっただろうか。それとも写真の少年と同じように、ただ顔を背けて沈黙する静物とすれ違うだけに終わっただろうか。少年を撮ったカメラマンはこう記している。

小さな子供たちは彼らの母親たちの腐臭を放つ死体とは反対の方へ顔を背けている。子供たちにはもはや泣く気力すら残っていない。

この写真を二十世紀末になって『映画史』の一齣に引用したゴダールの目交には、虐殺される「死者」と生き残る「生者」が此岸と彼岸に引き裂かれていく光景が、かなり早くから拭いがたく焼き付いていたのだろう。


67年の『ウィークエンド』の前半に訪れるクライマックスでは、週末に出かけるプチブルたちのバカンス渋滞の車列がいつ果てるともなく蜿蜒とつづいた先に、無惨に散乱した子供たちの轢死体を映し出して、観る者の息をはっと呑ませる。のっけから「屑のなかに見出されたフィルム」と自己紹介され、プチブルの夫婦が不思議の国のアリスや親指小僧と出会ったりするうちに、処刑されたりゲリラ化したりして人肉嗜食へ至るという『ウィークエンド』の「妖怪性」には、ゴダールの「革命時代」を予告する政治的趣向があちこちに漲っているのだが、名高い事故渋滞の映像だけを抜き出してみると、ちょうどあのベルゲン=ベルゼンの写真を裏映しにしたかのような印象に捉えられて、ふと立ち止まってしまう。


それもそのはず。写真では、大人の「死者」が累々と横たわるそばで子供の「生者」が視線を背けており、映画では、大人の「生者」の車列が蜿蜒とつづく先で子供たちの「死者」が横たわっている。後方の車列がわけもわからずクラクションや苛立ちの声を浴びせて、遂に「死者」と向き合わないという視線の交わらなさも同じ。両者の構成要素はところどころで反転しつつも、酷似した布置の映像を構成しているのである。もちろんすべてが同じであるわけはなく、写真が状況を静止像で示しているのに対して、映画が54台もの数珠繋ぎを圧巻のワンショットでクレーン移動撮影しているという違いを挙げられもするのだが、それは詰まるところ写真と映画の違いに過ぎない。


人はしばしば顔を覆って視線を殺すことによって悲嘆の身振りを示す。この写真と映画が共に示しているのは、機銃掃射や自動車事故などの「戦争機械」が成し遂げる高速のスペクタクルではなく、高速の機械によって引き裂かれ取り残された人々の内奥に、臓腑がゆっくりと燃え落ちていくような滞らんばかりの緩慢な血流の速度があるということだろう。


映画の中の60年代フランスの田舎道と普段自分が車を走らせる道をうっかり同一視するわけではないが、都心のような「自然な渋滞」がほとんど発生しない田舎道で不意の渋滞に出くわすと、事故の映像を反射的に想起して身を固くしてしまうことがある。そんな時は、眼前に伸びる赤いテールランプの連なりを事故渋滞ではなく「フラミンゴ渋滞」だと勝手に解釈して、厭わしい予感を振り払うことにしている。一羽のフラミンゴが車列を堰き止めているというイメージは、まるっきり個人的な想像の産物なのだが、このイギリス育ちのフラミンゴがわが想像裡に棲みついたのはもう10年くらい前のことなので結構な長い付き合いではある。


想像上のロンドンでの顛末は別時に語ることにして、動物園のフラミンゴがやはりある種の「引き裂き」を強いられていることを、檻越しに観賞する人間は知っておいてもいいと思う。動物園で飼育管理されているフラミンゴは、遠くへ飛んでいけないように羽根の先を習慣的に鋏で切られつづけるのだそうだ。これを「断翼」と呼ぶらしい。


かつてヘミングウェイジープを駆って狩猟に没頭し、レニがランドローヴァーの転倒事故に遭って映画製作を断念したケニアでは、「断翼」を強いられたことなどあろうはずもない野生のフラミンゴが、今も数百万羽もの大群をなして渡り鳥の本性そのままにあちこちの湖沼を飛びめぐっている。その群れなす渡り鳥と同種族の檻の中の鳥が、もし遠くを飛ぶ朋輩を追わんとして動物園を逃げ出したなら、そのフラミンゴは水中微生物の色に染まった花のような翼をぎこちなくばたつかせて、空の高みを自在に飛ぶための訓練をしなくてはならないだろう。


原因不明の渋滞がもたらす時間の浪費と停滞感をどうやり過ごすかには十人十色の処し方があるのだろうが、動物園を逃げ出したフラミンゴが初めて見る自動車に驚いて車道で立ちすくんでいるのだと想像するのが、目下の自分には興趣が深い。渋滞の車列の先で、羽根を切られて飛べなくなったフラミンゴが何とか飛び立とうとして繰り返し翼をばたつかせている。そんなあどけない椿事と引き換えにするのだったら、こちらの方が動かなくなったガソリン仕掛けの鉄の檻にしばらく囚われたって苦にならないではないか。そう想像してみる。渋滞の原因がなかなかつかめず、車体を右に振って車列の先を見透かしても目ぼしい情報が依然として得られないとする。そんな時は、さらに少し想像を引き伸ばして、大きな問題はどこにもないんだと自分に言い聞かせてみたりもする。車列が停まっているということはフラミンゴは轢き殺されていないだろうし、飛べないにしたってガードレールを羽ばたき越えるのにそれほど時間はかからないはずだ。それに動物園の檻から逃れられさえすれば、飛べないフラミンゴの切り落とされた羽根はいずれまた再生して生え揃うにちがいないのだから。




The Last of the Nuba

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ケニア

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ウィークエンド [DVD]

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竜頭をひねる

日本が北朝鮮工作員に占領されるという村上龍の新しい小説を読んで、とうとうあの永かった占領が終わったのだという感慨を深くした。占領によって占領が終わった。意味のもつれたこの短文の彼方には、陽当たりのいい文学史のメインストリームにありながら、人々に見出されなかったポストコロニアル文学の一道程が半世紀越しで伸びている。かつて敗戦後の米軍占領下で、村上龍の出現を早々に予告していた批評家がいたと切り出したなら、近未来小説の若い読者は歴史の方へ振り向いて耳を傾けてくれるだろうか。


「占領下の文学」と題されたその中村光夫のエッセイは、曖昧な「戦後文学」という呼称をより実質的な「米軍占領時代の文学」とリネームするべきだと主張した上で、まず文学における「1945年革命説」を屈託なく一蹴してみせる。

それ[戦後文学という呼称]は、「戦後」を「戦前」と対置することによつて、戦争といふものに何か文学を変質させる特別な作用があるやうな幻想をあたへます。中村光夫「占領下の文学」

そして、新しい文学を生み出すのに三十年かかったフランス革命明治維新の史実を拠りどころとして、「米軍占領がもたらした変革が新しい文学表現に結晶するには、40年代後半に生まれた子供たちが少なくとも20歳になるまで待たねばならない」と述べるのだが、ただそれだけの自然な歴史認識が、戦後文学派のやり場のない承認願望の噴出を招いたらしい。ある文芸評論家は「契約の年」という表現まで持ち出して70年代を待とうと挑発したのだが、歴史の審判は残酷なほどの明瞭さで文学史の上に振り下ろされた。


今日では、アメリカに象徴的に「占領」された文学の所在を問われれば、49年生まれで79年に『風の歌を聴け』を書いた村上春樹と、52年生まれで76年に『限りなく透明に近いブルー』を書いた村上龍の名前を、誰もが躊躇なく挙げるだろう。同じく今日いわゆるポストコロニアリズムの問題系が、往時の米軍占領を経て現在まで日本文学の「主流」に生きつづけていたことも、例えば支配国名を含んだ『アメリカン・スクール』や日本全土の占領そのものを描いた『五分後の世界』を挙げるまでもなく、文学史的事実と見ていい。


問題は、村上龍の新作『半島を出よ』がどのようにしてこのアメリカ支配のネオコロニアリズムパラダイムを終わらせたのかにあるのだが、さてそれを書きつけようとすると、その手をじわじわと抑え込みにかかろうとするような不穏な重力が辺りに立ち込める。いや書けない訳ではなく、『半島を出よ』を構成する三つの転回を数え上げれば話は早いのだし、手際よく「支配/被支配」という分数めいた記述式を使って、「アメリカ/日本」という戦後のマスター・ナラティヴ(主流の支配的な物語)を解体して「日本/朝鮮」を回復したとか、小説のナラティヴ・マスター(語り手)が日本人ではなく北朝鮮人であるとか、その両者が未来へ向かって歴史とは反対の「朝鮮/日本」を形成しているとか、シンプルな分析を並べることはさほど難しくはない。


実際、作者は三つの転回のうちひとつでも欠かすと時事小説の枠組みに捕まえられてしまうところを強靭な構想力で捻じ伏せ、その余勢で追いつきざまにポストコロニアリズムの硬直しがちなアイデンティティ・ポリティクスを肩を叩いて揺さぶったのだから、小説にしかできない達成がここにあり、村上龍にしか書けない小説がここにあると、人々は手放しの称讃を送ってもいいはずなのだ。それなのに、その喝采の手を縛るかのように何ものかが絡んでくるような気がするのは、中村光夫村上龍の間に不幸な結びつきかたをしたもうひとつの連繋があるせいだろう。


結び目は米軍占領以前にある。真珠湾攻撃の緒戦勝利に国民が浮き足立つ中、錚々たる知識人たちを糾合して「大東亜戦争」を正当化する思想的お墨付きを与えた<近代の超克>座談会の悪評が、遥か現代にまで轟いているのは無理からぬことだが、ここでは昭和で最も苛酷な言論環境の渦中にありながらも、討議を成立せしめている基盤そのものを、たちどころに「近代の疑惑」という一文で懐疑してみせた中村光夫の敬うべき思考の正確さを記憶しておけばいい。ここで語らずとも往時の言論の精細は、廣松渉の犀利な考察に満ちた著作で読むことができるから。


けれども、その『<近代の超克>論』を廣松渉が起稿した動機が、開戦によって近代を超克しうると信じた戦前の錯誤のありさまを見極めるためではなく、終戦から30年後に忽然と再出現した<近代の超克>論再興に対する牽制であったという序文を目にしてしまうと、その一文を読まなかったふりをして済ますことはできないような居心地の悪い引っかかりを感じる。さらに数十年後の90年代に、同じく「日本の近代化は終わった」というイデオローグを村上龍が務め上げたという事実が、脳裡をよぎるのをとどめようもないからだ。


いや、今度こそこの国の近代は終わったのだと語気を強めて断言しようとする論客もいるだろう。確かにこの半世紀の間に日本においてモダニティを産出する枠組みが組み替わったことは疑い得ないにしても、古典的な従属理論すら踏み越えて行けない国別の発展段階論に拠って「日本の近代化が終わった」と単線的に語る言説は、本当に今ここで生起していることを正確に伝える言葉なのだろうか。もし仮にそうだとするなら、たとえば誰の目にも明らかな、グローバリゼーションとナショナリズムの時ならぬ勃興とが同時に進行しつつあるという不可解な状況を把握する視角は、その一本の一次元的座標軸のどこから生まれてくるというのだろうか。


とはいえ、この未曾有の大作をものした小説家に読者は微笑を絶やす必要はない。すでに村上龍は「日本を主語にして文章を書くことは、その日本語の価値をスポイルすることだ」という台詞をどこかで口にしたことがあるはずで、あちこちの本を引っ繰り返してもその読み覚えのある台詞が見当たらないのは、あるいはそれこそが村上龍の唇を突いて出るべき台詞なのだとある読者に強く望まれているというありふれた空想的な事情があるのかもしれない。けれどもこの多弁な作家にプロンプターは不要だ。台詞の正確さという美徳を欠いた再演を観客はすでに見飽き果てていると記しておくだけで、すべては足りるはずだ。


きっと村上龍は次の舞台にもまた間に合うだろう。時に長編小説の構成が竜頭蛇尾であるという揶揄が飛んだりもするが、人々はその四字熟語の上二文字を切り出して、かつて作者が酒盃を傾けていた場と同じくリュウズと読むべきであることをそろそろ発見すべきである。ある小説の主人公が五分遅れた時計を携えて異世界に迷い込み、激しい戦闘の果てに五分時計を進めたように、村上龍が全存在をかけて竜頭をひねり時計を進めていくのを、依然として多くの読者が熱烈に注視しているのも無理はない。なぜなら、その遅れがちな時計はもうとっくに誰かひとりの時計ではないのであり、日本標準時の古陋な時計の竜頭を力ずくでひねって時を進めるのは、紛れもなく龍がなすべき仕事であると誰もが信じているからだ。




半島を出よ (上)

半島を出よ (上)

半島を出よ (下)

半島を出よ (下)

「近代の超克」論 (講談社学術文庫)

「近代の超克」論 (講談社学術文庫)

狂った果実の行方

「59年の犬」を探し回った先が半世紀近く前の時代だったせいで、右も左もわからないとまではいかないものの、予想もしない史実に突き当たって危うくおでこをぶつけそうになることがあった。石原慎太郎大江健三郎が「若い日本の会」で政治的に連帯していたり、江藤淳も含めた三人で内輪の食事会を持ったりしていたというのはその一例である。当時「太陽族」を出現せしめて一世を風靡した石原慎太郎の小説群は、そこで何度か場違いに引用されるマラルメの詩句と同じく、現在の文学的環境のもとではいくらか虚ろな所在なさ気な表情を見せているが、脚本を手がけた『狂った果実』となるとどうしてこうも輝きが違うのだろう。トリュフォーをはじめとするヌーヴェルヴァーグの面々の賞賛を引かずとも、自分の唇を噛んだ女を見据えながら血を拭う裕次郎の獣じみた表情や、背後にある青臭くて放縦な時代のセンチメントが、この56年の映画の中でまざまざと生きているのが伝わってくる。


といっても映画の構造自体は原作の小説と同じくシンプルきわまりなく、ひとことで言えと命じられれば、「外へ出る機械」を兄弟で奪い合う映画だと言い切ってしまえるほどだ。石原裕次郎演じる豪胆な兄と津川雅彦演じる柔弱な弟が、避暑地にきた北原三枝演じる若い女を奪い合い、その対立の板挟みになって岡田真澄演じる兄弟の友人が狂言回しを演じるという表立った筋立ては、少年少女のような半世紀前の四人のうら若さに比べれば、格別の印象を訴えてはこない。


けれども、女がジャズクラブに見知らぬ男性とともに現われると、いよいよ映画は自らの主題が兄弟による「外へ出る機械」の争奪にあることを露わにしはじめる。作劇法の常套に従えば、独身のはずだった女が年配の外国人男性を伴っているところを目撃されたら、二人の間にある性・人種・年齢の懸隔を動力として、夫だと強がって見せた後に実は父だったとか、逆に父だと偽った後に実は夫だったとか、不倫相手に対する女の心理を組み込んだ劇が展開されるのが自然だろう。ところが、映画は女に短い告白の台詞を割り当てるのみで、頑として姦通小説にふさわしい心理劇を演じさせようとしない。兄が弟を出し抜いて夫婦の別荘に間男として通うようになっても、女は先に交際をはじめた弟にも、それより先に結婚した夫にも、不思議なくらい心理的葛藤を示そうとしないのである。


では、この心理劇を禁じられたヒロインとは何なのか。それを見極めるには、映画が幾たび女を「外へ出る機械」に連結したかを虚心に数え上げてみるといい。冒頭で汽車に乗って避暑ヘやってきた女は、遠泳で沖へ向かおうとするところを兄弟のモーターボートにつかまって水揚げされるし、パーティーに来てみれば招待主の弟に外へ出ようと促されて自動車で運び去られる。戸外ではきまって自転車に乗っているこの女は、さんざんモーターボートに繋がれて水上スキーを娯しんだ挙げ句、弟を騙して借り出してきた兄のヨットに連れ込まれて外洋へ向かうことになる。これら女と機械の度重なる連結の中で、映画の展開を力強く牽引するのは、弟によって勝手に乗り出された英国車と兄によって勝手に乗り出されたヨットの二つなのだが、そのどちらもが外国人の血を引く裕福な友人の元から屈託なく持ち出されたものであることを忘れてはいけない。そう、外国人の夫の元から抵抗なく奪い去られる不倫の若妻は、これらの機械と構造論的にまるで同じ位相に立っているのである。それだからこそ、映画の中で女と機械はああまでも親密に繋がって見せたのだ。


まさか、という笑いを含んだ疑いの声を人は洩らすかもしれない。だが信じられないという嘆息のこもったその一語は、むしろ原作のクライマックスの記述に向けられるべきだろう。そこでは、女との駆け落ちめいたヨット航行の途上にあった兄が、夜を徹してモーターボートで追走してきた異様な形相の弟に向かって、「お前の勝ちだ」という叫びとともに、あたかも奪い合っていた玩具の機械を投り出すかのように女を海へ突き飛ばしてしまうのである。もちろん映画はこのあまりにも筋肉質で粗暴な兄の言動を許しはせず、締まった筋肉の持ち主である石原裕次郎の節度あるつかみかかりを、気丈な面持ちの北原三枝によってきっぱりと振り払わせている。しかしかといって、幕切れ寸前ではじめて心理をあてがわれた女が、その直後に弟の名を叫びながら自らの意志で弟のボートめがけて海へ飛び込んだところで、とってつけたような心理劇がこの映画で成就するはずもなかった。


すでに猛々しく唸る弟のモーターボートは、何周もヨットの周囲を偏執的に旋回しつづけている。今や海上に白く毳立ったその円形の航跡は、あてどないヨットでの逃避行という兄と女のメロドラマの閉域を、これ以上ないほど鮮やかに浮かび上がらせている。あとは、これまで頑なにヒロインに心理劇を禁じてきたのと同じ機械的構造が作動して、「外へ出る機械」の運動が貫徹されるのを待つばかりだった。すなわち、モーターボートは女と兄を轢き、ヨットを破砕して、メロドラマの閉域を突き抜けてしまうのである。突き抜けてもなお、海面を叩いて飛ぶように外へ外へとモーターボートが駆動をやめない最終場面は、この機械仕掛けの映画が映し出したもっとも無慈悲でもっとも美しい映像だと言えるだろう。


さて、56年の『狂った果実』から過ぎること四半世紀強。89年になって唐突に10分間の「続編」が世に現われたことをここに付記しておきたい。「禁じられた果実」という類題を付されたその作品は、実は続編映画ではなく、ジョン・ゾーンというハードコア・ジャズの怪物が同映画にインスパイアされて創った楽曲である。サウンドトラックを手がけた武満徹の仕事とはまるで異なるものの、なかなかどうして聴き手を娯しませる奇天烈な音楽に仕上がっている。


もともとはデューク・エリントンの方法にヒントを得たというジョン・ゾーンの「ファイルカード方式」は、仲間と即興で膨らませたアイディアの断片を自在に繋ぎ合わせる作曲方法を指すらしいのだが、出来上がったジャズは明らかにジャズという固定観念を越えており、デューク・エリントンを偲ばせるような艶は微塵もないといっていい。五線と戯れる音符を息継ぎを交えて追いかけるのではなく、音符をベルトコンベア上に乱雑に並べて速度を上げたり下げたりしながら気儘に奈落へ消し落としていくような音楽だと言えば伝わるだろうか。そのキッチュさが耳に障らない程度に音量を絞って、ジョン・ゾーン機械的な音の斡旋と不意にきわまる凄まじい音の速度を聴いていると、これはこれであの機械仕掛けの青春映画の核心を大胆につかみ出した音楽だと思えてくる。


そして、この独創的な再生産を成し遂げたのが、離れた時代に離れた国から来た外国人であることをあらためて想起すると、映画にあった「外へ出る機械」の強靱な推進力の反映を、あるいは外部へ向けて突き抜けることの得難い貴さの継承を、海を越えて波及したこの変則ジャズの乱反響のどこかに探りあてようとして、知らず知らずのうちに聞き入ってしまうのだ。




狂った果実 [DVD]

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Spillane

Spillane

硝子の雨

誰かに教えてもらった他愛のない話。日本語の話せないフランス人が皆「お菓子をちょうだい」という子供じみた催促を覚えて、この極東の異国にやってくるという噂を小耳に挟んだことがある。Donnez moi un gateau.とフランス語でおねだりすると、日本語の「どうもありがとう」に響きが通じるので、旅行者はきまってそんな風に礼を言うというのだ。異国から来た大男が歓待に応えて日本語でお礼を言っているはずが、実は母国語でお菓子をおねだりしているという二重言語の想像図は、想像する人を微笑ませずにはおかない。


un gateauというフランス語の守備範囲は日本語のそれよりも広く、クッキーからケーキまで小麦粉でできる菓子類のほとんどすべてをこの一語で指し示すらしい。ちょうど昨今、菓子職人とケーキ職人という日本語がパティシエという一語の外来語に取って代わられようとしているのと変換規則が似ている。言葉は無数の綾で現実と結びあい不断に結び変わっていくので、新しい言葉はきまって新しい現実と連動して生まれてくる。したがってパティシエという新しい通称に呼応して、それにふさわしいガトー作りの新旗手が登場するのは自然な成り行きで、ある朝の新聞の一角に新進パティシエのエッセイが飾られていたのを、ぼくは事件としてではなくやはりエッセイとして読んだのだった。


むしろ気に懸かったのは、フランスでクプ・ドゥ・モンドを獲ったこの超絶技巧の持ち主が紙面では「シンプリシテが勝利する」と力を込めて繰り返していることで、その対照の妙に目を止めているうちに、曖昧だった既視感がゆるやかに記憶の輪郭をなして浮かび上がってきた。ある冬にそのパティシエの店とは知らずにケーキを買ったことがあったのを思い出したのだ。6、7年前のことになる。彼女が予約したケーキを持ち帰ってみると、クリスマスなのにデコレーションのきわめて抑制された真っ白なケーキが現れた。世評が高いと聞かされていたので意外の感に打たれつつ賞味すると、これが嫌味のないすっきりと冴えた美味で、フォークがみるみるうちに進んでいく。これが人々の選ぶ美味しさなんだねと頷きあった記憶がある。


フランスに、一片のガトーをきっかけにして、主人公が恍惚となるまでに無意志的記憶の広がりに浸透されてしまう記念碑的作品があるのは、誰もが知るところだろう。名作の顰みに倣おうとするわけではないが、呼び醒まされたこの記憶の先に折り重なった枝々が伸びているのが見えるので、もう少し記憶の語るままにまかせたい。


二人でケーキを買いに行ったのは確かに小型の愛車だったはずだが、その記憶のそばで自転車の前輪がしきりに不安定に揺らめいているのは、パティスリーの近くの高級住宅街で令嬢として育てられた彼女が、ほとんど乗ったことのない自転車に乗って当時会いにきてくれていたからだろう。自転車くらい上手に乗れるのだと胸を張ってほんの数秒にも満たない両手放しを披露してくれたこともあったが、彼女の腕前は足首を挫くと自転車を漕ぎ出すことすらできなくなって、ぼくが後ろから走ってサドルを押してようやくふらふらと走り出すほどのものだった。ハンドルにしがみついているせいで振り返って手を振ることもできず、ひたむきに漕ぎ去っていく彼女の後ろ姿の愛らしさは、車に顎を砕かれたせいで親猫から見捨てられた仔猫を、死んでいくまで夜を徹して看病にあたった彼女の慈しみの深さと同じく、かつて確かにそこにあり、誰が何を言おうとも決して消すことのできないものだ。慣れない自転車に乗ったりしたせいで、きっと転倒する夢を何度か見たことだろう。悪夢に魘されて泣いたりしたことがなければ本当にいいのだけれど。


ぼくも中型二輪の免許を取ってからしばらくは、バイク事故を起こす夢に夜な夜な苛まれた。夜によってそれぞれ事故の顛末は異なるものの、どんな手立てを尽くそうが減速と操舵がまったく利かず、熱い鉄塊の暴走をどうにも食い止められないところが、夜毎の悪夢の共通項だった。砂塵のように波打って流れ去る風景を見透かしつつ、車列のルーフが閃かない間隙をめがけて、何度バイクを蹴ってダイブしたことだろう。


やがて反復強迫にも慣れはじめて、夢の中で「これは夢だ」とわかる明晰夢の態をなしてくると、背後の後部座席にいつのまにか誰かが跨って馴れ馴れしく話しかけてくるようになった。意味がわかるようなわからないような不安定な話しぶりからすると、相手はどうも見知らぬ女らしい。くすぐったそうな愛嬌のある声で「もうこれでいいでしょう」とか「そうするしかないよ」とか指示内容の判然としない指示語を含んだ科白を囁いて、背後からするすると両手を絡めてくる。あるとき、女の手のひらが顎の上まで迫り上がってきて、さもそうすることが当然であるかのように鼻を撫でまわすと、運転するぼくの顔を両手でぴったり覆ってしまった。


次の瞬間、バイクの行く手には早くもバイクが映り込んでいて、巨大なガラス建築が逃れようもなく立ちはだかっている。衝突。瞬時に衝撃でファサード一面のガラスが粒状破片*1となって、光り輝く雨のように降り注ぐ。ガラスの雨粒が落ちては跳ねて、動かなくなった人間の衣服を切り裂き、皮膚を傷つけて、燦然と跳ね回りつづける。


けれどもこういう時は夢見の常で、ガラスの雨を浴びてずたずたになった自分を見つめているもうひとりの自分がいるものだ。その自分が、これはいつか書かれるだろう小説の一場面にちがいない、忘れてはいけない、と遠ざかる意識の中で繰り返し自らに言い聞かせているうちに、卒然と目を醒ます。そんな夢を見たこともある。


しかし、目を醒ましたからといっても現実の世界へ戻ってきたとは限らない。目醒めて夢の外へ出たつもりでも、そこもまた別の夢の中なのかもしれないからだ。砂粒の数ほど無数にある夢の連鎖に囚われて、醒めても醒めても夢の中にしか目醒めることのできない男の悲劇を、かつてボルヘスは短編に書いた。醒めようとしても永遠に醒めることのできない夢こそ、究極の悪夢なのかもしれない。


もしあのガラスの雨を浴びた夢から醒めて、別の夢の中へ目醒めていたとしたら、ぼくはやはり件のガラス建築の前で、軽く頭を振って身体のあちこちをさすりながら起き出したような気がする。眼前でファサードのガラスが無傷のまま涼やかに光を透過させているのを見て、なんだ夢だったのかと安堵の溜息をついたりしながら。ただしおそらくそこでは新たな問題が生まれてもいて、それはたとえば、すでに固く閉め切られた建物の内階段を、さっきまで背後にいたはずの女がいそいそと地階へ降りていこうとすることであったりするだろう。慌てて駆け寄って手招きして彼女を呼び寄せるのだが、完全にガラスに隔てられているせいで、それ以上の何をすることもぼくにはできない。間近で見ると、見知らぬ女だったはずの女は、茫洋とした輪郭の中にもなだらかな肩を息づかせており、手に小体なハンカチを隠し持っているのが、なぜだか知っている女のような懐かしいような風情をかきたてる。声すら届けようがない疎隔にぼくが打ちひしがれて、他に言うべき言葉も思いつかずにDonnez moi un gateauと呼びかけたとしたら、ガラスの向こうに立っている彼女は、言葉に込められた意味の通りにぼくの唇を読み取ってくれるだろうか。


きっと願いどおりに言葉は伝わることだろう。仮にそんなことはありえないにしても、そう夢見ることくらいは許してほしいと誰彼にともなく乞いたい。何しろそれはぼくが夢見る夢の中の夢の中の夢の中で、もっとも切実に願われている光景の一齣なのだから。



失われた時を求めて(上)

失われた時を求めて(上)

失われた時を求めて(下)

失われた時を求めて(下)

*1:一般的なフロートガラスは破損するとステンドグラス様の大小さまざまな破片になるが、強化ガラスは破損するとほぼ全面がビーズ大の粒状破片になる。

文豪と水道

近隣の水辺を再生してそこに蛍や鮒を呼び戻そうという活動が、日本のあちこちで盛んになっているらしい。こうした自然回帰の動きは東京などの大都市でも進行しており、都市の再生を掲げた都市計画論が書店の一角を賑わせたりもしている。


中でも、石川幹子『都市と緑地』が、緑地を侵蝕し分断する「都市計画なき規制緩和」に歯止めをかけようと抵抗しているのに目が止まった。著者は欧米の都市形成の歴史を詳述して、東京にもパーク・システム(緑地の機能的構成)を織り込んだ都市計画を確立すべきだと説く。古都ボストンが自然再生型の河川改修によって豊かな緑の連鎖を築き上げ、それを市民がエメラルド・ネックレスと呼んで親しんでいることが、おそらく著者の念頭では強い輝きを放っているのだろう。同書は、都市に根づいている自然や歴史を人々の「共有資本」として再認識し、その豊かさを永続的に維持し、発展させ、受け継いでいく「生命都市」の基盤を構築すべきだという提言で結ばれている。


都市計画に携わることはもちろんできず、ただ本を読むことしかできないぼくは、都市と緑地の問題を木々を中心に考えるのではなく、すぐさまパルプ加工して紙々=書物を中心にして別の考えに思い至ってしまう。すなわち、この国に根づいている書物や歴史を人々の「共有資本」として再認識し、その豊かさを永続的に維持し、発展させ、受け継いでいく基盤を確立するには、どうすればいいのだろうか、という問いに。


もちろん簡単に答えを出せるわけはないが、書物という「共有資本」の豊かさをあらためて印象づけるくらいのことならぼくにもできるし、そのためには、ここで都市論と文学論の交錯する前田愛『都市空間のなかの文学』を採り上げてみるのもいいだろう。なにしろ同書の「廃園の精霊」という一章からも、明治初期に「都市と緑地」が拮抗した一場面が窺えるのだから、やはり書物というものの広がりは尽きないのだ。


批評の俎上に載せられているのは永井荷風の『狐』で、野狐を父が仕留める顛末を幼い「私」が見守るというだけの小説なのだが、そこから著者が縦横に走る三つの動線をつかみ出してくる手捌きは、この上なく緻密で繊細だ。まず手始めに、小説のあらすじから、父が「母なるもの」を象徴する狐を殺すことによって「私」の自立を代行したという劇を読み取る。続いて、幕藩体制の崩壊によって武家屋敷が軒並み廃園となっていた史実を明らかにし、その鬱蒼とした野生の「緑地」が荷風の新しい住居を脅かしていたことを浮き彫りにする。さらに、永井家が狐の標的となった養鶏を手がけていたのは、当時の内務省が養鶏を奨励していたからであり、しかも荷風の父が政府官僚だったからだという背景まで明らかにする。


この正確無比とも思える読解にすら、別の書物がページを貼り付けて思いがけない接ぎ木をするのが書物というメディアの面白いところで、水道をめぐる言説を洗いなおす吉田司雄*1は、荷風の父が上水道の普及を推進する要職にあったことを読みの前面に打ち出している。そして、「水道」を敷設する内務省衛生局の官僚が「古井戸」の近辺に棲む野狐を殺したという筋書きに、近代国家による生命管理の意志を読もうとするのである。


これらの荷風の短編をめぐる諸説に、ここで別の一ページを付け加えたいと思う。荷風森鴎外に師事していたことは知られているが、軍医森林太郎荷風の父がいた市区改正委員会を援護する論陣を張っていたことはあまり知られていない。林太郎は「市区改正ハ果シテ衛生上ノ問題ニ非サルカ」という挑発的な反語を冠した啓蒙文で、コレラなどの伝染病の蔓延を防ぐには、帝都をあげて上下水道の大々的な整備を挙行するしかないと熱弁をふるった。ドイツから帰国した直後、鴎外の「戦闘的啓蒙」と呼ばれる時期の話である。これと符節を合わせるかのように、市区改正委員会も抜本的な上下水道整備の必要性を調査報告するのだが、財政難から上水道のみが優先され、下水道整備が開始されるまでにはとうとう二十年もの歳月がかかってしまったらしい。


大正に入って下水道が敷設されると、荷風や鴎外が住んだ山の手の下水は、雨水とともに皇居を迂回して芝浦ポンプ場*2へ集められ、そこから品川湾の第七台場沖*3へ放流されるようになる。当時は、品川駅のすぐそばまで海岸線が迫っており、そこから飛び石がジグザグに湾内を横切るように、六つの海上砲台場が並んでいたのである。はるか百年後、大きく塗り変えられた現在の地図を眺めると、第七台場は小学校になり、第四台場は天王洲の一角を形成し、第一台場と第五台場は品川埠頭に併合され、第二台場は取り崩されて海底に消えてしまったことが見てとれる。辛うじて第六台場と第三台場が史跡に指定され、「お台場」と通称されて砲台場としての面影を残すばかりである。*4


荷風の小説で狐が出没した辺りは、水道町という名で現在の地図上に残っている。一方、二人の文豪が明治国家揺籃期に上下水道を敷設せんとする近代的意志によって繋がっていたという史実は、その水道の果てで、埋立地に併呑されたり、海底に消えたりした歴史上の構築物と同じく、人々の記憶から拭い去られてしまったようだ。


都市空間のなかの文学 (ちくま学芸文庫)

都市空間のなかの文学 (ちくま学芸文庫)

*1:小森陽一紅野謙介高橋修・編『メディア・表象・イデオロギー』より。

*2:現在の港区港南にある芝浦水再生センターはその後身。

*3:水道史には第七台場と記されているが、より正確には、埋立てただけで工事中止となった海上の第七台場の代替として、陸地に築造された御殿山下台場を指すと思われる。

*4:冒頭で言及した石川幹子が、その第六台場と第三台場を水と緑を有機的に構成することによって再生しようという都市計画を提案しているのは、興趣をそそられる偶然である。

59年の犬を探して

『革命的な、あまりに革命的な』を知的興奮をもって読了したからといっても、これらの史実が自分の生年以前の過去のものだということを忘れるほど冷静さを失ったわけではないし、かといって現在著者が形成しているだろうある党派に追従しようと思い立ったわけでもなく、ましてや未来への革命の志をやにわに抱いて奮い立ったわけでもない。


ただ読んでいるうちに、ぼくが久しく探しあぐねている「59年の犬」がこの書物のあちこちを駈け回っているらしいことがわかったので、胸を躍らせてページをめくり途切れがちな足跡を追いかけたのだった。


たとえば、大江健三郎『われらの時代』が取り上げられている第Ⅰ部第四章は見逃せない。59年に発表されたこの小説は、大方の悪評に逆らって「ほかの作品は棄ててもこれだけはのこしたい」*1とまで当時の著者に言わしめた重要な長編であったのに、先頃何らかの理由で著作目録から抹消されたという噂*2も手伝って、文学史から徐々に消える運命を甘受しつつあるように見えた。それを『革あ革』(こう略すらしい)は、同時代の心性と激しく共振し、60年安保のニューレフトの誕生を促し、続く68年革命をも射程におさめた重要な小説であるとして、勢いよく舞台に引っ張りあげている。ぼくもこれを機会に、同小説内の「59年の犬」をここに引っ張ってくることにしよう。

「おれはじつに沢山の犬を見たよ」となんだかほっとして靖男はいった。「ここへくる途中で野犬を沢山見たんだ。駅の昇降口にいっぱい寝そべっていて通行人を眺めてるのさ」
「電車にも乗りこんできた?」
「あ?」とびっくりして靖男はいった。
「冗談かと思ったんだ」と弟があやまっていった。「ほんとうに、そんな場所に犬がいたの」
「公衆便所の植込みとか、駅の階段に寝そべっているんだ」大江健三郎『われらの時代』)

残念なことに、靖男は犬の話を「つまらない話」だと自嘲してそれ以上は語ってくれない。小説においても、この非現実的な野犬の群れがどこから来たのかは最後まで書かれずじまいなのだが、59年という年号に執着してみれば、別の小説の幕切れに騒々しく闖入した犬の群れと関連があるのではないかと疑いたくもなってくる。

 玄関の扉があいた。ついで客間のドアが、おそろしい勢いで開け放たれた。その勢いにおどろいて、思わず鏡子はドアのほうへ振向いた。
 七疋のシェパァドとグレートデンが、一度きに鎖を解かれて、ドアから一せいに駈け入って来た。あたりは犬の咆哮にとどろき、ひろい客間はたちまち犬の匂いに充たされた。三島由紀夫鏡子の家』)

もちろん同じく犬の群れが描かれたという理由だけで、『鏡子の家』と『われらの時代』を短絡させて虚構間妄想を逞しくしようというのではない。直叙的な表題を持つ前者と同じく、後者も「時代を描こう」とした小説だからなのだろう。この両作品はいたるところで分かちがたく現実の社会状況と結びついているのである。しかも犬という記号とともに。


三島由紀夫大江健三郎より10才先行しているという生年の順序は、同年に発表されたこの二つの作品においては、特に看過ごすことができない。『鏡子の家』の中心にいるのは、敗戦を20才前後で迎えた世代である。小説では、この「戦中派」の人々が焼野原と瓦礫の光景へ兇暴な郷愁をにじませる様子が描かれ、その頽廃の根城だった「鏡子の家」の客間を犬の群れが侵犯することによって、ある時代を終わらせている。続く『われらの時代』の中心にいるのは、60年安保前夜を20才前後で迎えた世代である。小説では、その「戦後派」の人々が不穏当な手段で閉塞状況を脱しようとしてことごとく挫折する様が描かれ、背景の物騒な社会に野犬の群れが遍在していることが描き込まれている。新時代の胎動を伝えるこの時期に、危機の予感をともなって現れた犬の数は一匹や二匹ではない。


文学史に目を向けても、三島由紀夫が世評に報われなかったその小説で描いていたのが54年から56年の一時代であったことを思えば、翌57年に大江健三郎が新世代の旗手として頭角を現したという文学史と、そのエポックとなった処女作が「犬殺し」を描いた『奇妙な仕事』であったという事実は、作中の犬の群れの吠え声以上に読者の耳目を欹てずにはおかないだろう。いったいこの犬の群れは何ものであり、どこから来てどこへ向かおうとしていたのだろうか?


群れがどこから来たのかは定かではないが、そのうち一匹の行方は、数冊の随筆がしっかりと尻尾をつかんでいる。三島より年少で大江より年長のある闘争的な保守論客が、『犬と私』という生彩に富んだ可憐な随筆の書き手でもあったことを、この国の人々は記憶しているだろうか。驚いたことに、あの江藤淳が犬を飼い始めたのもやはり59年(!)なのである。


これは冗談ではない。江藤淳にとって、黒のコッカー・スパニエルが単なる愛玩動物以上の存在だったことは、随筆をはじめ多くの証言からはっきりしているが、その犬への惑溺が、江藤流ナショナリズムの核心に意外に深く立ち入っていることも、今後の入念な研究が明らかにしていい事柄だろう。江藤淳のターニング・ポイントとなったアメリカ滞在中の見聞記には、あるイタリア系移民の医師がアメリカ文化に同化するためにアイルランド系の母を裏切って改宗したことが原因で、犬を抱いて車の中に閉じこもってしまう様子が印象的に描かれている。その移民二世は、母への罪悪感と文化的アイデンティティの喪失の二つに苛まれて、犬を愛することしかできなくなったのだという。


従って、帰国後に書かれた『成熟と喪失』で「母の崩壊」が論じられ、やがて45年の敗戦によって喪失した「日本人のアイデンティティ」の回復を訴えるという江藤淳の批評家としての道筋は、かなり早い時期から、犬という家族ならざる家族を伴って試し歩きされていたと言えるだろう。


こうして飼主に引かれて45年という特権的な年号へ舞い戻った「59年の犬」は、そこで江藤淳が鬼気迫る情熱のもとに、GHQの施策を細密に検証した最重要の著作*3を完成させるのに立ち会うことになるのだが、その後の消息がふっつり途絶えていることから考えると、どうもぼくの見るところでは、そのまま45年の特権的な死者たちに首輪の鎖を繋がれて、棄て犬にされてしまったような気がする。


というのは、家族論をそのまま同心円状に国家論へ拡大して、45年の死者たちを媒介にして国民的アイデンティティ疎外論的に確立しようという江藤流ナショナリズムが、今なおこの国において保守の論調を規定しつづけているからだ。しかもそこでは、疎外論ナショナリズムの不可能性として随伴していたはずの犬という記号はおろか、江藤淳の仕事すら満足に引照されないまま、あたかもそれが「新しい」ものであるかのように繰り返し回帰するという不自然な現象として、人々に行き渡っているのである。90年代に歴史主体論争として再現されたこの繰り返しは、現在も靖国神社問題として執拗に立ち現れているのだから、抑えようのない既視感が、45年の地点に棄てられた「59年の犬」を、魅入られてはならないものに魅入られて石化したかのような靖国神社の一対の狛犬と二重映しに見せてしまうのもやむをえないだろう。


ここまで追ってきた犬という記号の複雑な連関を、出来合いの単純な図式に還元するつもりはない。けれども、アメリカに対する従属/独立という国家的緊張のもとに、安保闘争においては飼犬→野犬という進行があり、ナショナリズムの再興においては45年へ向かって飼犬→棄て犬という遡行があったというラフスケッチを思い描いて、ぼくはいまだに「59年の犬」が出没しそうな界隈*4待ち伏せをしている。見失ったこの犬が、いずれ日本の言説のどこかにひょっこり姿を現すような予感がしてならないのは、ひょっとしたらこの国が途轍もなく長い鎖をつけてこの犬を飼っているからなのかもしれない。


あるいは、少しばかりの思考の自由をもってこう考えることもできる。「59年の犬」が犬としての姿を見せなくなったのは、この犬という記号の連関を覆い隠すようにして不自然に拡大する何ものかに、数十年をやすやすと越えるほどの永すぎる鎖で、この国の人々が繋がれつづけているからなのかもしれない、とも。




われらの時代 (新潮文庫)

われらの時代 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)

犬と私―第一随筆集

犬と私―第一随筆集

*1:橋川文三『日本浪曼派批判序説』より。

*2:この経緯については、不覚にもその真偽も含めて資料を精査できる環境にいないので、「もし噂が本当なら自分の好きな小説が衆目から遠ざけられるのは残念だ」といった私的な感想以上のことを述べることはできない。ちなみに同章冒頭ではこの小説を「大江健三郎の最初の長編小説」としているが、これは小さな傷。その前年に書かれた『芽むしり仔撃ち』が処女長編である。

*3:『占領史録』『閉ざされた言語空間』など。

*4:思想的位相こそ違え、この犬の足跡は、『革命的な、あまりに革命的な』がその先に掘り進めつつあるらしきあの一本の地下塹壕の伏線と、いくつもの点で交わっているように思える。

『革命的な、あまりに革命的な』

現在『LEFT ALONE』という映画が全国を巡行しつつ公開されているが、その出発点となった絓秀実『革命的な、あまりに革命的な』は、内ゲバを含む思想史論的な劇物と革命への執拗な情念が填まった刺激的な書物であり、それゆえ読み手に慎重な取り扱いを要求する厄介な書物でもある。実際、ある世代のある党派に限定したこの当事者証言を前にして、「部外者」の読者が取り扱いにうろたえ、「ある種の人々の回顧録にすぎない」「現在なぜ1968年なのかわからない」という投げやりな呟きとともに脇へ押しやってしまうこともあるらしい。


けれども、展開されているのはあくまで当面の陣地戦にすぎず、その戦況(たとえば小熊英二『<民主>と<愛国>』が68年を鶴見俊輔的なもので代表させたことに対して、絓秀実が華々しく地歩を奪還しようとする様子)だけに目を奪われて、本書の戦果をはじき出そうとするのはいささか早計だと思う。68年革命論はこの国の「ニューレフト」の陣営がようやくにして築いた橋頭堡なのだから、本書のアクチュアリティは、「世界革命の一環としての68年革命論」が、今後どのような思想に対してどのような闘争を挑みうるのかに、そのほとんどが懸かっていると言えるだろう。

われわれの視点も(…)今なお日本において支配力をふるっている「戦後というパースペクティヴ」(広義の「1945年革命説」)―――それは、われわれの「反戦」=「反米」意識をも規定する―――への批判をも内包している。

目敏い読者は、引用の一節の示す方向に、敵陣へ向けて掘り進められようとしている一本の地下塹壕の伏線をすでに読んでいるかもしれない。




革命的な、あまりに革命的な―「1968年の革命」史論

革命的な、あまりに革命的な―「1968年の革命」史論