流れる水の重みが岸辺と岸辺を遠ざけていく

冬の日曜日、風が澄み切っていて気持ちがいいので、新しい音楽でも聞いてみようとジャズの棚の前に立った。手に取ったカバー・アルバムには日本語の楽曲も含まれていて、『蘇州夜曲』といえばどこかで聞いたことがある。戦時に満州で作られた国策映画じゃないか。女の声の風合いをヘッドホンで確かめてから買い物籠に入れた。


傾きはじめて夕日になりかけた赤い日差しに照らされながら、遠回りして海岸線に沿って走らせる。カーステレオから、細やかな息遣いを行き渡らせた日本語詞が洩れてくる。

花を浮かべて流れる水の
明日の行方は知らねども
水に映した二人の姿
消えてくれるな何時迄も

同じ日に、きみも同じ曲に聴きいっていたことをwebの便りで知った。もう忘れてしまいそうな昔話だ。深刻な紛争に巻き込まれて、どうしても連絡をつけねばならないと手を尽くした内の二人がJのイニシャルで、不運なことに二人ともが予感したとおりぼくとは立場を共有できない立場に立っていた。そんな関係を「向こう岸」に喩えてから早二年半。きみの仮名の頭文字はJからTに変わったが、渦中にいる自分は相も変わらず息絶え絶えに水の流れに巻かれ続けている。もし、という仮定の言葉が自然に口をついて出るのをとどめようもない。もしあの頃のきみと自分が切り捨てがたい係累を元手に信頼を交わしていたなら、往時の暴流を堰き止められずとも流れを変えられたのは確かだろう、などというのは、溺れる者が息継ぎのつかのまに吸い込む一片の夢想にすぎないだろうか。


『蘇州夜曲』を歌った李香蘭は、終戦後に裏切り者の中国人を裁く「漢奸裁判」で極刑になるところを、ロシア人の幼馴染の奔走によって日本人山口淑子であることが証明されて放免された。「同じyoshikoであるとは奇遇だ」という台詞を交わしたこともあったらしい。清朝の血を引いた「男装の麗人川島芳子の方は、満州での策謀の漢奸罪で銃殺刑に処された。李香蘭を救った幼馴染の女性は、戦時中に兄を日本の731部隊(人体実験で有名)に殺され、終戦後に夫をスターリン強制収容所送りにされたのだという。これらの事実は歌のどこにも歌われていない。


ヘラクレイトスが説くように万物は流れ去る。人は同じ岸辺に立ったとしても二度と同じ川で水浴びすることはできない。かといって水の流れを追いかけても、行けば行くほど辿り着きたい彼岸の影は遠ざかるばかりだ。まだ手を振るこちらの姿がそちらから視認できるうちに、早い方がいい、きみに聞いて欲しい頼みがある。目隠しされている者の代わりに、そちらの岸辺で起きたことのすべてを余さず見届けて欲しい。この紛争のすべてを見られる人、すべてを理解できる人はきみのほかにはほとんどいないから。




ムーン・ダンス

ムーン・ダンス

李香蘭と東アジア

李香蘭と東アジア

生き埋められたものは鼓動する

強盗が人質をとって一週間も銀行に立て籠もったら事件だが、監禁された被害者が銀行強盗に心情的に肩入れしてとうとう結婚にまで至るというのも、ちょっと立ち止まって考えたくなる事件だ。それを機に、ストックホルム症候群と呼ばれるようになった被監禁者の監禁者への心理的な依存は、127日に及んだペルー日本大使公邸占拠事件では逆方向にもたれかかって、監禁者たちが被監禁者の射殺を遂行できない状況を生み出したらしい。こちらはリマ症候群と呼ばれるようになった。


けれども、そんな特殊な心理状態を通過したからという理由だけで、人質の一人の発言が軽んじられるべきではないだろう。強行突入直後、武力行使の成功に沸き立つ人々の狂熱の中で、射殺されたゲリラ組織メンバーの死をも悼むべきだという声が押さえ込まれる様子はあたかも「魔女狩り」のようだったと、人質の一人は著書で述べている。「魔女狩り」的な付和雷同の嵐から数年後、投降したゲリラ兵士を「処刑」した特殊部隊の暴挙はとうとう裁判にまで発展したと聞くが、その余は知らない。


テロについて語るとき、人々はしばしばテロリズムを支持しないと良識を明らかにした上で口を開く。語り出すそれぞれの言説に違いがあるのは、現実が多数的なのだから当然なのだが、それでも群集心理の俗情がテロの不安を払いのけるのに不都合な言説をことごとく排除しようと躍起になるのは痛々しい。テロは字義通り、人々が偶然その標的となるごくわずかの実現可能性によってではなく、これまでも潜在的にあったその実現可能性の冷静な再認識をあたかも未知の脅威であるかのように恐怖させるという効果によって、人々の言動を支配する機制である。したがって、テロ後の言論に見られる「魔女狩り」はテロへの抵抗ではなく、被害者側の多数者によって代行されたテロの継起的プロセスであると言うしかない。テロの犠牲者の生命の尊さを云うのなら、彼らの血が乾かないうちにどのような歴史が過去に動き出したのかを、人々は胸に刻んでおくべきだろう。検証すべき不自然な痕跡が多々ある大韓航空機爆破事件(1987)は大統領選挙のさなかに起きて軍部出身の大統領を誕生させたし、テロの情報を故意に黙殺したアメリカ政府は9・11後にイラク戦争を引き起こして軍産複合体を潤わせた。多数者にもたらされるニュースは、massの一人として動員されるためにではなく、動員操作のダイナミズムを読み取るために存在するのである。


暴力によってもたらされた不安を解消するために、大衆がより大きな暴力を行使できる権力に服従することの危険を、政治を読むことのできる映画監督や文学者はこれまで繰り返し警告してきた。四半世紀前にドイツである政治映画を共同制作した九人は、こんな声明を発表している。

テロリストに対する社会のヒステリー状態、シンパに対する無差別な迫害、既成の秩序に対するいかなる批判をも罪悪視し、威嚇する風潮が支配的であり、管理体制や検閲制度がますます強化される傾向がある。さらにまた何よりも、テロリズムファシズムとの神聖ならざる同盟への恐怖があるので、我々の国の民主主義に問いかける映画を共同製作したのである。『秋のドイツ』作品紹介より

(続く)




ハインリヒ・ベル小品集

ハインリヒ・ベル小品集

アンティゴネーの主張―問い直される親族関係

アンティゴネーの主張―問い直される親族関係

ゴールキーパー上空には映画

暗闇の中にいて光に覆い被さられるという意味では夢は映画に似ているが、夢を見ているときに身体のあちこちが酔っぱらったようにあたふたして動き回る身体感覚は、映画館の観客席では味わうことができない。それとも夢の中で歩き回ったり走ったりするのは、自分だけなのだろうか。夢中になって革張りのボールを蹴り回す夢を幼い頃からしばしば見る。身を乗り出そうとすれば足元が手応えなく浮き上がり、胸板をどちらへ向けようが肩の平衡さえとれない。そんな多方向の諸力の交錯する夢見がちな運動体が、まともなサッカーをプレイできるはずはないのだが、ゆるゆると横転しながら定まらない眼前の遠くへ、とにかく遠くへと首尾よくシュートを放った夢の醒め際、運河の水脈が地平をずたずたに裂いて遠くまで走っているのを、ちらりと見たような気がして目を醒ましたこともあった。


きっとその残像は、「ジーザス・クライフ・スーパースター」のトータル・フットボールの特質をその発祥地である「茎‐運河をそなえたリゾーム都市*1アムステルダムに関連づけた書物を、若い頃に好んで読んだことの遠い反響なのだろう。しかし、リゾームとまでは言いにくいにしても、たとえば野球よりも遙かに停止が少ないせいで範疇化や数値化を逃れた多様な動態でありつづけているサッカーという競技も、その発祥を辿ってみると、多人数が同方向を目指す単一の群れとなって、野を越え山を越えてボールを蹴り運んでいく祝祭に起源しているというから驚く。オフサイドとは文字通りその祝祭集団から脱落する行為を指したのだという。


したがって、近代サッカーは集団と目的地=ゴールをそれぞれ二等分して、一平面上に正対する2ベクトルとして向き合わせることによって、世界的な球技となりえたことになる。この一平面がどこまでも均一の緑に覆われたフラットな平面であることが、サッカーを愛していた頃の自分のささやかな不満だった。クロスカントリーの起伏を持ち込んだり、運河を縦横に引いたりするのは不可能だとしても、何とかしてピッチを平行に複数化したり、垂直の軸を加えたりして、立体化した都市型のサッカーを構想できないだろうか。想像力はすぐに返事をくれた。


誰も寄りつかなくなった取り壊し寸前の建築物を想像してほしい。おそらくそのn階とn+1階は、閉ざされた無数のドアが向き合った長い一本の廊下に貫かれているだろう。廊下の一方の端は階段で他階に通じており、もう一方の端にはエレベーターホールが据え付けられているが、エレベーターと連動して開閉するはずのホールの扉だけがない。そのせいで、矩形にくりぬかれた暗い吹き抜けが露わになっていて、大口を開けた闇の中を垂直にワイヤーが張り詰めているのが見える。n階、n+1階のその奈落への入口がゴールマウスだ。ゴールの反対側、センターサークルにあたる階段での攻防は、重力を味方にするn+1階側が圧倒的に有利になるので、ハーフタイムでエンドが替わるとはいえ、最初のコイントスが大きな意味を持ったりもする。ゲームは5対5ぐらいのストリートサッカーに近い人数構成で行われるだろう。ただしゴールキーパーが要らないのがこの想像上の立体サッカーの特徴だ。なぜならエレベーターのワイヤーに吊られているのはエレベーターボックスではなく、捕らえられて逆さ吊りに拷問されている男。ディフェンダーは敵が攻めてくると、昇降ボタンでその虜囚を呼びつけて、草サッカーでは誰もやりたがらない退屈なゴールキーパー役を務めさせる。逆さ吊りの男は、視野の天井に吸い付くように走り回る脚々やボールを、船酔いのような止みがたい眩暈とともに凝視しつづけることを強制される。


今から十年近く前に書きつけた創作ノートには、この男がどういう理由でどういう組織に捕らえられたのか複数のアイディアが詳細に記されているが、最終的にそのどれもの上を投げ遣りな削除線が横切ってしまったのは、当時、この想像上の立体サッカーと二重写しになっていたペルー日本大使公邸占拠事件を正確に読み解く力が足りなかったからだと思う。


武力決着から二年後、人質だった大使館員がノンフィクションを著して、武力突入時の現場の推移を多数の生々しい証言によって再構成した。ウィーン条約で不可侵のはずの大使公邸を急造トンネルで急襲した武力解決の実態から浮かび上がったのは、意外にも、突入側にあったあまりに「法外」な無思慮の強硬姿勢と、テロリスト側にあったあまりに無邪気な戦略的思考の欠如である。


運命を分けたのはトンネル掘削の発覚に対する対応だった。MRTAというゲリラ組織の頭首だったセルパは、床に耳をつけて軍事突入用のトンネルが掘られつつあるのを確認すると、非難声明を発表してペルー政府側との予備的対話を中断した。それだけならまだしも、一階で寝起きしていた日本人の人質を二階へ移動させ、一階を自分たちの居室にしてしまったのはどうにも致命的だった。おそらく、トンネルが武力突入のためではなく人質救出のために掘られていると勘違いしたのだろうと、当時二階へ移った著者は推測しているが、そんな子供らしい思い込みの虜になったのは、ゲリラ組織ナンバー2のロハスがかつて服役中に仲間に救出トンネルを掘ってもらって脱獄に成功した過去があったからなのかもしれない。


しかし、トンネルは脱獄のときのように同朋愛や友誼を通わせたりはしなかった。武力突入後、公邸内で射殺を逃れて身柄を拘束された少なくとも三人*2が地下トンネルの密室に連行されて「処刑」されたと複数の情報筋が語ったという。MRTA側がゲリラ兵士たち14名全員を射殺によって失ったのに対して、ペルー政府側の損失は人質1名特殊部隊2名の死亡に止まった。誰の目にも明らかな圧倒的な戦果の差は、国際社会に平和的解決や対話を軽んじる風潮をもたらすという更なる損失をも齎すこととなったのだから、当日昼食後にのどかにサッカーに興じることを選んだゲリラ兵士たちの想像力のなさは罪深い。たとえ平和的解決の道が残されている状況であったとしても*3、あらゆる種類の駆け引きは、一地点から見通せるような一平面上のみで起きるのではなく、たとえばその床平面の不意の爆破による爆殺をすら想定しうる多文脈的状況論的思考を要求してくる。やはり彼らはn+1階から圧倒的に不利なn階へ移動するべきではなかったのだ。


話はもうひと飛びする。アメリカW杯の地区予選最終試合で日本代表チームがロスタイムの失点によって敗退してからしばらく経った頃、どこをどう辿って知ったのかは忘れてしまったが、白金台のカタール大使館が移転すると聞きつけて、石油産出国らしい威容を誇る白亜の建築が取り壊されていくのを見物しに行ったことがある。写真が散逸してしまったせいで、あのとき鉄柵越しに見透かした崩壊途上の建物の記憶は朧だ。けれどもカタールの首都名を冠して「ドーハの悲劇」と呼ばれるフットボールナショナリズムの絡み合った挫折劇は、未だ確たる像を結ばない自分の想像の中*4では、あの「治外法権」下で蹴り合われる立体化した都市型サッカーの形をとって、今もロスタイムの逆転ゴールを狙いつづけているような気がするのだ。




封殺された対話―ペルー日本大使公邸占拠事件再考 (20世紀を読む)

封殺された対話―ペルー日本大使公邸占拠事件再考 (20世紀を読む)

June 12 1998 -カオスの緑- [DVD]

June 12 1998 -カオスの緑- [DVD]

*1:ドゥルーズ=ガタリリゾーム

*2:著者はティト、シンシア、それと顔を確認できなかった男性コマンド一人が生きたまま拘束されていたのを目撃している。

*3:すでにセルパは幹部釈放の「闘争」を断念し、組織の温存を図るために「脱出」することを選択していた。

*4:充分な言葉で書き留めてやらなかった空想という奴は、反復夢のように繰り返し人を脅かしつづけるものなのかもしれない。未見であるのに強力に惹きつけられる映画のことを、jamais vueという言葉では足りずに上手な比喩で説明しようとして、あの宙吊りのゴールキーパーの上空にある矩形に切り取られた青空に似ていることに思い至った。よくはわからないが自分の存在と抜き差しならない結びつきがあり、それを手繰り寄せることで新たに鮮やかな視界が開けるような気がしてならず、映画なのに少しも遮蔽幕のようではなくて一群の鳥が羽ばたき抜けるほどに外へと通じている……。目下、自分の上空にあって心に懸かっているのは、青山真治間章に肉薄した『AA』という映画。

首のない裸体―――あるミシマ論のための草稿―――

仮花愛盗禁鏡潮金美永獣美近午宴音真青


この文字列が何に由来するかおわかりだろうか。署名も脈絡もないのに、それが誰の言葉なのかを読む者の意識に強力にかきたてずにはおかない十八文字。朱色の背表紙を持つある文庫本を片手で折り曲げるように撓らせると、裏表紙のカバーがめくれて、縦に直立したこの十八文字が現れる。新潮文庫に収録された三島由紀夫の作品リストの頭文字だけを並べた一行である。


2005年はミシマの名が繰り返し取沙汰された年だった。海外の短編映画祭で次点となった『憂国』のフィルムが発見され、「楯の会」にて起草した憲法私案が公開され、遺作『豊饒の海』の初巻『春の雪』が映画化された。自らの筆名を戯れに魅死魔幽鬼尾と綴って出した書簡集が刊行されたのは数年前のことだが、自死したミシマの何に魅せられているのかを、戦争を知らない子供たちが戦争を語るように、自衛隊市ケ谷駐屯地での割腹自殺を知らない人々が気兼ねなく語り出したような趣きがあった。その多くが、むしろあの歴史的事件を誇大に投影する形で三島論を織り上げているのが、小説の内外を突き抜けて伝説たらんと欲したミシマの死後に、いかにも似つかわしい推移のように感じられる。


と云っても、自分も1970年以後に生まれた人間の一人であり、十代の終わりにミシマを耽読するうちに、いつのまにか伝記的事実を携えたままテクストへ分け入ってしまい、そこで掘り当てた幾筋かの鉱脈を記すことによって、いつか三島研究に新しい一頁を書き加えることができるだろうと夢想した子供らしい過去を持ってもいる。その鉱脈の断続的な露出にこの場で光をあてる前に、毀誉褒貶の激しい三島評価の中から、一対の際立ったコントラストを引き出しておきたい。


黙殺や棄て台詞の類を除くと、三島評価の「最左翼」として定着しているのは、「空虚」という語が重ねられる浅田彰の評言であるらしい。ところが、あらためて『天使が通る』を読み返してみると、そこにあるのは相当数の資料を踏査した上で対象の輪郭を正確に見定めようとする読解があるばかりで、殊更に冷眼視するような態度は見当たらない。とりわけ、文芸誌掲載後の反響に対して、自分たちの対談こそがミシマの「矮小化」から距離を置いているのだと応じているのが目を引く。

この対談の載った三島由紀夫特集(『新潮』一九八八年一月号)の時点で依然として、三島は本気で死んだのだ、「神」なき日本近代において逆説的に「神」を希求すべく最後の侵犯行為を行ったのだ、といった論調が見られた(たとえば富岡幸一郎「仮面の『神学』」)のには、率直に言って唖然とした。三島のなかにそういう意図がまったくなかったわけではないとしても、そんな単純な図式で割り切れる人間でないことは明白ではないか。三島をバタイユらと結び付けて論ずるのも適当ではない。三島がバタイユよりはるかに小心であり、同時に、はるかに頭がいいことは、これまた明白ではないか。『天使が通る』における浅田彰による注記

発言の周辺から二つの論点を引き出すことができる。一つは、自衛隊市ケ谷駐屯地での割腹自殺と同じく、『春の雪』『奔馬』において天皇という禁忌を侵犯することで「天国への裏階段」を駆け登り「絶対」へ到達したのだとしても、『暁の寺』『天人五衰』において仏教の空と重なりつつ破綻していく物語の衰弱と空虚ぶりは只事ではなく、自死と『豊饒の海』を関連づけるには複雑な思考が必要であること。もう一つは、ミシマのバタイユ受容の不確かさ、あるいはミシマの中でバタイユの思想が果たした重要性の不確かさを等閑視すべきではないこと。双方とも、遺された作品に目を通した者には異論を挟む必要を感じさせない基礎的な見解であるように思う。


一方、三島評価の「最右翼」に立って独自の論陣を張っている文学者としては、先頃『群像』に『金閣寺』論を発表した平野啓一郎の名を迷わず挙げられるのだが、やはりというべきか、対極にあるこちらは「絶対者としての天皇」という概念の起源を『金閣寺』の金閣に探り当てることができるかに、一作を対象に据えた評論としては異例ともいうべき130枚近くの紙数が費やされている。


評論中、金閣を焼失させていく炎の壁がミシマにとっての「戦火」であり、放火魔が金閣の究竟頂での自死を試みて果たさなかった場面に作者の「叶わなかった戦死」を重ねようとする箇所などは、いかにもこの戦後文学の名品をしばしば愛読書に挙げる平野啓一郎らしく、見るべきところが見られており、随所に引用すべきところが引用されている。けれども、対象の公開情報をどの程度に蒐集しているかは、その批評の価値の尺度とはならない。ここではむしろ、割腹自殺の地点から振り返って、『金閣寺』で絶対者への到達劇(究竟頂での自死)から訣別(結語の「生きようと思った。」)した筈のミシマが、『鏡子の家』の世俗的不成功のせいで(!)、戦中派生き残り組の倫理的な負い目と相俟って、絶対者への渇望を再燃させた、と簡略的に物語化しようとするこの伝記的作家論が、なぜこのように書かれねばならなかったのかと問うてみると、更に興趣が深まるだろう。長尺の作家論が、ある独特のたたずまいで横たわっているのが見えてくるからである。


平野啓一郎の『金閣寺』論からは、入念な操作によって、二種類の言葉がほぼ完全に排除されている。一つは、作者の「肉声」以外の他者の先行研究の言葉であり、もう一つは、セクシャリティの領域を語る言葉である。この二つの切断線によって囲い込まれた小説言語の一領域が、平野文学の輪郭そのものにきわめて似ていることを、『金閣寺』論を読み終えた読者は意識せざるをえないだろう。一篇から窺える、作品に対する作者の絶対的地位の揺るがなさや、偉人の伝記的事実への嗜好、セクシャリティに対する反動的な忌避(あるいはその裏返しとしての偽悪的な露出)は、平野啓一郎という作家の核から放射され、これまでの作品群のありようを規定してきた強力な描線でもある。それだけではない。評論の冒頭付近で、評者は『金閣寺』がバルザックの『「絶対」の探求』のパロディとして構想されたことを創作ノートを元に種明かししているが、そこで光を当てられたもう一つの種明かしに言及しないわけにはいかない。バルザックの『「絶対」の探求』は錬金術師が「絶対」を追い求めて没落していくさまを描いた中篇である。『金閣寺』とその『「絶対」の探求』とを重ね合わせて見透かした先に、『日蝕』中の、火焙りの刑に処せられて「絶対」へ到達するアンドロギュノスと、「魔女」に深く関わったがために囚われの身となる「錬金術師ピエェル」の姿を見出すことは、さほど難しくはない。この『金閣寺』論は、またとない「彼自身による平野啓一郎」の一ヴァリアントとして、平野研究のための貴重な資料となっているのである。


けれども、冷戦終結から数十年経ってからの左右翼の二項対立的な饒舌が人を退屈させずにはおかないように、死後数十年を経た小説家の評価を二分する両翼を仔細に言挙げしたところで、新たな批評の言葉が生成される筈もないだろう。俗物が拘泥する「評価の高低」という単一の価値軸―――ユークリッド幾何学的に言えば低次元の一次元的な座標軸―――の単一の磁力に巻かれてしまわない程度には思考の自由を保持しつつ、座標軸の両極にある言説を同時に肯定することによって、批評対象のテクスト自身から撚りだした異なる軸を直交させること。それこそが、ミシマの「絶対への志向」という通説の圧力を平野文学に接続して逃がしつつ、この小文が黙々と目指してきたところである。


すなわち、もしも、しばしばバタイユ経由であると誤解されるミシマの「禁忌と侵犯のエロティシズム」が、平野流の伝記的事実に基づいた実証主義的アプローチのみによって、作者固有の私小説的エッセンスであると推定しうるとするなら? おそらく、これまでの三島研究の相貌は、いくらかの変容を余儀なくされるのではないだろうか。


評伝などの二次資料も含めると、すべてがテクストに書かれていることに驚くべきなのか、すべてがテクストに書かれているのに批評がそれをみすみす看過してきたことに驚くべきなのか。代表作を読み解く鍵概念となるのは、「女という禁忌」である。とりわけ、ミシマが戦中に関係を隔絶させられた二人の女性像の断片が、作品群の至るところに痕跡を残しているのが、目敏い読者の目を引きつけずにはおかない。


一人は、戦時中にミシマとの交際が実らずに他家の妻となった「邦子」という女性の痕跡である。出世作仮面の告白』の刊行後に、作家は知人に宛てたある書簡で、作中のヒロインを「園子」と命名したせいで、モデルにした「邦子」のイメージを喚起できずに苦労したと洩らしている。「園子」の二文字はきっかり「その子」と韻を踏んでいるのだが、指示語を媒介にして呼び出すのでは隔靴掻痒の感があったのだろう。『金閣寺』では、作家は放火犯が一方的な思いを寄せる女性に「有為子」という名を授けて、金閣と同じく完全な美しさで主人公を圧倒し拒絶する存在として登場させた。母音を押韻した「ui子」の系譜は、『鏡子の家』では「紐育」に駐在する清一郎の妻「藤子」に引き継がれる。当時偶然ニューヨークで「邦子」夫人と再会したミシマが、登場人物を海外赴任させてまで描き込んだのは、「清一郎」と婚姻関係にある「藤子」が素性を隠した両性愛者「フランク」と通じてしまう姦通劇だった。この章が、素性を隠した同性愛者「私」が性的関係に至ることができずに「園子」が他の男と婚姻を結ぶという顛末を辿った『仮面の告白』の、十年後の屈折した変奏曲であることは論を俟たない。


もう一人は、戦時中に18才の若さで急逝したミシマの妹「美津子」である。戯曲の方が「告白」を織り込みやすい*1と語っていたミシマは、実妹と母音を踏んだ「iu子」を何度か登場させて、大胆かつ巧緻な劇作を織り上げている。とりわけ、『熱帯樹』の「郁子」が幕開きの直後に小鳥を絞め殺し、母殺しを逡巡した兄を近親相姦に誘い込んで心中へと導く兄妹劇が強烈な印象をもって迫ってくるが、『朱雀家の滅亡』の「璃津子」が許婚を戦死によって失ったのち、二人の婚姻と許婚の出征地変更を許さずに自らは生き延びた「忠臣」の義父に、夭逝した義母の花嫁衣裳を纏って「滅びよ」と命じる終幕も忘れがたい。


「璃津子」の人物像が実妹よりは「邦子」に親しいことからわかるように、複数の女性像を幾重にも重ねて造形するのが、この作家の方法論であるらしい。すると、戦時中に感染症で急死した「美津子」が聖心女子学院の女学生だったという事実と、そのおよそ十年後ミシマが再び結婚を意識しはじめた時期に、同大学英文科に在学中だった正田美智子(現皇后)と知人の紹介で幾度かの逢瀬をもったものの立ち消えになったという事実とが、分かち難いほどに重なり合っているのが見えてはこないだろうか。*2 『春の雪』に描かれた、皇太子妃に内定した令嬢=「絶対の禁忌」を犯す悲恋の物語は、バタイユを受容する遥か以前の作者の実人生に由来するところが大きいのである。『春の雪』の連載が終わりに近づいた頃、ミシマは親しい批評家に「あれは私小説なんだよ」と洩らしたという。*3


女への不能と断絶を描いた『仮面の告白』、女へ至るのを妨害する観念的余剰物(金閣寺)を焼き払った『金閣寺』、女という禁忌をとうとう侵犯するさまを描いた『春の雪』。これらを一線に並べてみると、もっとも世評の高い三作が「女という禁忌」という中核的な主題の周りに生成されていることはもちろん、三作の主題論的な連携にヰタ・セクスアリス的な「物語」を読み取ることすら不可能ではないだろう。また、「女という禁忌」という主題に、少なくともhomosexuality=禁色、近親相姦、天皇の三つの禁忌が結合していることをあらためて強調しておく必要もあるかもしれない。さらに、幼少期のミシマが病身の祖母によって実母の元から隔離されて育てられたという伝記的事実は付け加えておいた方がいいし、ミシマの著作権を管理していた「最後の女性」が「同性愛伝説」に通じる作品や資料の公開を厳然と禁じつづけてきた事実と、その「禁忌」が猶も生きていることにも言及しておく必要がある。*4しかし実のところ、これらの伝記的事実の生々しい露出は、テクストにあたれば誰にでも読みうることにすぎず、読めばわかることを今更らしく指摘したところで、現今の状況下でミシマをどのように読みなすかという批評的営為を推進せしめる力になるはずもない。


それはちょうど、王様の架空の衣装を讃える衆愚に逆らって、「王様は裸だ」と脱神話化の叫びを叫ぶ子供を果敢に演じたとしても、相手の王様が裸を見せたがっているのだとしたら、結果的に宣伝役として奉仕しているにすぎないのと事情が似ている。伝記的事実の作品化などという神話作用に、批評は足をとられるべきではない。実際、伝記的作家論から離れて正確を期すると、細江英公の前で半裸の被写体となったこともある「裸の王様」は単に己の実存的な裸体を見せたがっていたわけではないのだ。作品が開示しているのは、裸体そのものがヴェールのような衣装であり、それがヴェールであることを明かすには暴かねばならず、それが衣装であることを明かすには脱衣せねばならないという逆説である。*5そして、人はこの地点にたやすくニーチェの処女作を呼び出すことができるはずだ。

こうして酒神賛歌を歌っているディオニュソス奉仕者は、同じような類の人によってしか理解されない! アポロ的ギリシア人は、どんなに驚いて彼らを眺めねばならなかったことか! しかもその驚きはいよいよ高まるばかりだったのだ。これらすべてのことが元来自分たちにもそれほど縁遠いものではないということ、それどころか、自分たちのアポロ的意識はただヴェールのようにこのディオニュソス的世界を覆いかくしているにすぎないという身の毛のよだつ思いが、この驚きに混じっていたからである。ニーチェ悲劇の誕生

(明晰と理性の神アポロンをいただく)アポロン的存在の薄い皮膜を(酒と陶酔の神デュオニュソスをいただく)ディオニュソス的存在が荒々しく突き破って、渾然一体と相交じり合う劇が、ミシマの作品で執拗に反復されていることに、もう少し多くの文学研究の言葉が費やされるべきではなかったか。アポロン的な「建築」とディオニュソス的な「音楽」を交合させた「建築に音楽があり、音楽に建築がある」という対句が頻出するのはささやかなその直叙だが、『金閣寺』で主人公が女と性的交渉を持とうとすると、「憂鬱な繊細な建築」が現れ、私の「人生との間に立ちはだかり」「巨大な音楽のように世界を充たし、その音楽だけでもって、世界の意味を充足するものになった」と書かれる名高い場面にも、ニーチェ経由の二項対立の秘教的な合一が顕現している。と、こうやってテクストの細部を伝って読みを走らせ、とうとう作家論から逃げ切ったと思ったこの瞬間に、またしても仕組まれた伝記的事実に足をとられるのが、ミシマを読むということなのかもしれない。「最後の一行が浮かばないと書き出せない」としばしば語って、自らの意識家ぶりを顕示していたミシマは、自決の朝、もはや帰ることのない机上にニーチェの『悲劇の誕生』を据えて、市ヶ谷へ赴いたのだという。


したがって、細心に彫琢された裸体の前で「見事な衣装」だと讃嘆の声をそろえる衆愚の輪から抜け出て、「あれは裸体であり、裸体の皮膚の裏側までが赤裸々だ」と孤独な好事家の台詞を呟いたとしても、ミシマを見るこちらを背後から見ているミシマの視野から逃れることはできないのだ。見なくてはならないのは、その裸体に首がついていないこと、嗅ぎ取らねばならないのは、その裸体を熱烈に注視している首がわたしたちの背後に隠れていることである。いま一度、複数の優れた知性の持ち主が、この「首のない裸体」を多頭化しようと試みたり*6、どんな首とも挿げ替えのきく「首のない裸体」の首のなさ*7に注目していることを想起してもいいのではないだろうか。


ミシマに魅惑されたことのある人間は、おのおのの道を辿ってあの首を獲りにいかなくてはならないのだが、幸いにして異なる道がまだ残されているように見える。


ミシマは遺作『豊饒の海』の後に藤原定家の評伝を書きたいと公言していたが、自決によって果たさなかった。この事実は、『豊饒の海』以前にミシマが「若い定家」と絶賛したある歌人の処女歌集の冒頭が「生首」によって飾られているという事実と、謀ったかのようにぴたりと平仄が合っている。春日井建『未青年』で、「海の悪童たちに砂浜へ埋められ」、首だけを出した「ぼくの真上には 病んだ 紫陽花のような日輪が狂つていた」と語られる巻頭の詩文にも、生首と太陽との親密な結びつきがあるが、ここではミシマが贈った序文に続く最初の一句を引いておく。

大空の斬首ののちの静もりか没ちし日輪がのこすむらさき

おそらくこちらの道は、あの首からミシマという署名を消すこと、続いてミシマの顔を消すことに通じているはずだ。すなわち、「切り離された首」という主題の歴史的な積み重なりの網の目であの首を捕まえて非特権化し、太陽との主題論的な結びつきの光量を生かして、それをいかなる注視によっても首かどうかすら見分けがたくすること。一歩間違えれば神格化へと頽落しかねないそんな危うい道行きの長さを想像するとき、その想像者の念頭にたえず鳴り響くにちがいない詩句は、アポリネールの「地帯」の断片。

さらばさらば

太陽 斬られた首よ

*8



天使が通る (新潮文庫)

天使が通る (新潮文庫)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

日蝕 (新潮文庫)

日蝕 (新潮文庫)

*1:この発言は「小説では『仮面の告白』にならざるをえなかった」と換言することもできる。

*2:mitsukoとmichikoの音韻上の類似性にも注目。

*3:村松剛三島由紀夫の世界』

*4:藤武三島由紀夫の生涯』によれば、村松剛は『三島由紀夫の世界』を執筆する際に、故三島夫人から圧力をかけられたために、同性愛を排除して異性愛を中心にした評伝を書かざるをえなかったという。

*5:後年ミシマはこの逆説に「表面そのものの深み」という逆説的な表現を与えた。

*6:ミシマの『仮面の告白』に対して島田雅彦が『僕は模造人間』を書き、『豊饒の海』四部作に対して『無限カノン』三部作を書いたことの文学的な相関関係を、批評は充分な質と量の言葉をもって語らなければならない。中上健次が『貴種と転生』によって報いられたように。

*7:宮台真司のミシマ読解の鋭さは特筆に価すると思う。

*8:尚、この小文は平野啓一郎『顔のない裸体たち』(『新潮』2005年12月号)へのある種の応答として書かれている。

速度の現前

Webを覗いていると、ミース・ファン・デル・ローエがデザインした椅子に腰掛けてオペラを鑑賞しているところだ、なんていうご機嫌な日本語に出くわしたりすることもあって、ドイツから摩天楼の合衆国へ渡ったあの伝説的なガラス高層ビルの建築家の人気は、この極東の地でもまだまだ衰えていないのだなと感じさせられる。


ミースが活躍を始めるのは第一次大戦敗戦後のドイツ。既にブルーノ・タウトが組織していた「ガラスの鎖」グループには合流しそこなったが、ワイマール共和国の知識人がこぞって高層建築にソヴィエト経由の、そして後のナチス国家社会主義につながる反資本主義的な包括的全体性の体現(「都市の冠」*1)を夢見ていた*2のに抗うように、ミースはガラスのカーテンウォールを張りめぐらせた高層ビル案を公表して建築界に鮮やかに登場した。ミースの高層建築がしばしば「零度の建築」と呼ばれたり、ヴィトゲンシュタインの言語論に類比されたりするのは、ガラスに対する徹底した唯物論的な思考を用いて、その透明性によって建築構造を明示的に現出させ、同時にその反射性によって「都市の鏡」という虚像を構築したことに拠っている。


やがてヒトラーが「全権委任法」を成立させて、ワイマール憲法を事実上の停止に追い込み、独裁的な「例外状態」の現出に成功すると、ナチズムから逃れるためにミースはアメリカへ渡り、ブルーノ・タウトは日本へ移住した。タウトが数年間の日本滞在中に、伊勢神宮桂離宮の建築の美しさに心酔して、数々の印象的な日本論を書き残したことは、よく知られた話だ。


残念ながら、ガラス建築で名を馳せたタウトはこの国の保養地に和洋折衷の別荘一つを遺すのみに終わったが、それから半世紀の間に、東京は世界にも類例のないほどガラスを自在に使いこなした建築物が林立する都市となった。個人的には、バブル経済の熱波の中で建築計画が巨大化して膨らみ、バブル経済がはじけた後の沈滞した東京に、桁違いの巨躯をぬっと露わにした有楽町の東京国際フォーラムが忘れがたい。外観も曰く言いがたい奇矯な形をしているが、中に入って天を見上げると、白骨化した恐竜のような骨組みが宙吊りにされていて、周囲をガラスの壁に取り囲まれているのが、あたかも巨大な遺骨の陳列ケースのようでもある。この白骨見たさに、地下鉄を乗り継ぐのにわざわざ地上に這い出て、恐竜の腹のあばらを見上げながら、有楽町まで歩いたことも何度かあった。そうするうち、ラファエル・ヴィニオリという設計者の名も脳裡に焼きついた。


ヴィニオリの名に再会したのは、9・11から一年半くらい経った頃だったと思う。World Trade Centerの跡地利用を決定づける設計競技が早くも開かれ、ヴィニオリを含む設計チームが惜しくも次点で敗れたという一報が舞い込んできたのだ。設計競技の勝者は、ポーランド出身のユダヤ人であるダニエル・リベスキンドで、過去にベルリン・ユダヤ博物館を設計した輝かしい業績がある。けれども、リベスキンド案の内実の是非はともかく、濃いユダヤ人脈で構成されたアメリカ政界の一派(ネオコン)が、9・11における物議を醸した不透明な危機管理から、アフガニスタン侵攻の「不朽の自由」作戦、イラク戦争の「衝撃と畏怖」作戦までを主導したことを思えば、「戦争の記憶」をどのような形態で国家として保存すべきかの戦後問題までが、落ちるだろう政治的な場に落ちてしまった感は否めない。


このような建築の持つ政治性や思想性について、いくらか饒舌すぎるほどにもっとも雄弁でありつづけているのは、最新の著作に『les objets singuliers―建築と哲学』を持ち、9・11後に「ツインタワーのためのレクイエム」という小文を寄せたボードリヤールだろう。建築に宛てた追悼文の冒頭で、ボードリヤールミース・ファン・デル・ローエの遥か先まで来ていたWTCの高層建築を、巧みに自身のシミュラークル論と世界システム論に取り込んで、こう読み取ってみせる。

塔が二つあるという事実は、起源に関するあらゆる準拠の喪失を意味する。ひとつしかなかったら、独占状態をこれほど完璧に体現することはできなかっただろう。記号の二重化だけが、記号が何かを指し示すことを、ほんとうに終わらせることができる。そして、この種の二重化には、特別の魅惑がひそんでいる。(…)ロックフェラーセンター・ビルは、まだニューヨークの果てしない鏡となって、ガラスと鋼鉄のファサードをキラキラと輝かせていた。ツインタワーのほうは、もはやファサードを持たない。顔がないのだ。垂直性のレトリックとともに、鏡のレトリックも消滅する。完璧に均衡の取れた、窓のないこれらのモノリスとともに残されたのは、ある種のブラックボックス、分身となって閉じられる一組のセットだけだ。まるで建築そのものが、システムの現状を反映して、もはやクローン操作と不滅の遺伝子コードからしか生まれないかのように。ボードリヤール『パワー・インフェルノ

けれども、双子の塔の思想性については思考の冴えを見せてくれたこの記号論系の社会学者も、WTCがなぜ旅客機によって崩壊させられなくてはならなかったのかに論が至ると、にわかに概念操作の手綱捌きが繊細さを失い、事あるごとに「世界システム」の名を呼び出して、結論の座に据え付けようとする。「アメリカの幻影とイスラムの幻影をつうじて、勝ち誇ったグローバリゼーションがみずからと格闘している場面なのだ。」「グローバリゼーションに抵抗しているのは、じつは世界そのものなのだ」「現実とはつねにシステムの戦場なのである。」等々。


尤も、「湾岸戦争は起こらないだろう」という論説をリベラシオン紙に発表した直後に、世界中のTVが「クリスマスツリーのような」バグダッド空爆を映し出す事態となり、その悲喜劇的な予測外れをもって「湾岸戦争最初の犠牲者」と揶揄されたボードリヤールのことだ。往時、すぐさま機敏に軌道修正して、「湾岸戦争は本当に起こっているのか?」とメディア・コントロール論に軸足を移すと、もはやクラウゼヴイッツ云うところの古典的な戦争は起きないのだとして『湾岸戦争は起こらなかった』という挑戦的な書物を世に問うたように、この9・11の衝撃を受け止めた思想書*3も、時局に合わせて根幹とは異なる場にある枝葉を急伸させていくこともあるかもしれない。


そんな可能性を思いつつ『パワー・インフェルノ』を読み返してみると、戦争の世紀をこれ以上ないほど煮詰めて濃縮した一文に、反芻して味わいたい含蓄を見出すことができる。「第一次世界戦争が帝国主義を終わらせ、第二次世界戦争が反ユダヤ主義を終わらせ、第三次世界戦争(冷戦)が共産主義を終わらせた。第四次世界戦争はグローバリゼーションを終わらせるだろう。(大意)」……


管見では、9・11とイラク戦争を貫いている最も大きなヴェクトルは、世界システムに内在する反グローバリゼーション勢力ではなく、(やはり世界恐慌直後のナチスドイツの独裁的台頭を思い出さずに入られない)、WTC崩壊の衝撃によって反テロリズムを口実とする「全権委任」を取り付けて、軍産複合体が「例外状態」においてだけ可能な「戦争商品」のグローバルな大量消費を狙ったところにありそうなのだが、もちろん話をこれで終わらせていいわけではない。続けなくてはならない。


テロリスト自身さえ想定しなかったツインタワーの同時崩壊は、旅客機衝突の損傷よりも、気体から溢れたジェット燃料の火災に因るところが大きかったという。衝突したのは二機とも、ボストン発ロサンゼルス行き。補備燃料も含めると、およそ6500km/6時間飛行分の膨大なジェット燃料の多くが、塔の裂け目に注がれた計算になる。この事実は、世界貿易センターが、衝突時の時速1000km超の旅客機の「速度」によってだけではなく、「速度」に変換されるはずの膨大な化学エネルギーが熱エネルギーへ誤変換されたために、崩壊に導かれたことを意味している。同時多発テロは、いわば「速度」が現実を捩じ伏せてしまう凄まじい力を現前させたのだ。したがって、テロ直後に真っ先にドロモロジー(速度学)の提唱者ポール・ヴィリリオの名が呼び出されることになったのだが、当のヴィリリオの方は冷静な口調で、8年も前からこの惨事の可能性をある論文中で取り上げていたと指摘して、世界の耳目を引いた。

1993年に世界貿易センターに最初に攻撃がおこなわれた時点で、「ニューヨークの譫妄」という論文ですでにかなり正確に記述しています。もちろん予測があたったからといって、満足しているわけではありません。でも9月11日の出来事は、わたしが当時恐れていたことを確認する結果となりました。中山元・編訳『発言』「予測が的中して残念だ(ポール・ヴィリリオ)」

都市計画家でもあり、建築家でもあり、思想家でもあり、『カイエ・デュ・シネマ』に携わっていたこともある多面体のヴィリリオを、最初にドゥルーズ=ガタリによる熱烈な言及が表舞台に上げた*4ことはすでに伝説になっているし、批評対象の多彩さの割には思想上の主軸が貫徹しつづけている―――つまりは同じ思想が反復されていることにも、すでに多くの指摘がある。ここでは、目下の自分の興味に合わせて、ヴィリリオの思想を切り揃えて「テクノロジーと資本の論理によるグローバリゼーションが時空間を圧縮し、リアルタイムという遮蔽膜上に人間を釘付けにして、その地政学的な眩暈の中で国内外同時植民地化が進行しつつある」という一文にまとめておく。


より少なく言い直すなら、こうだ。この十年という時間を言葉で表そうとして、その手前で、自然にそこにあるはずだと感じていたものが崩落していく感覚、足元を踏みしめ損なって不意に内臓をひやりと涼しくするような危機と喪失の感覚が、思考の底のキーノートになっていることに気づく人は多いのではないだろうか。この譬えにある不安定な空間の感覚を、速度にまつわる時間の感覚に翻訳し戻して、何が失われたのかを正確に把握しようとするとき、ヴィリリオの著作群はこの上ない知的刺激に満ちた触媒となるだろう。


その思考の行方とは別に、ヴィリリオナチスドイツ占領下の戦禍の中で幼少期を過ごしたことが思想の原点になっていることと、都市が瓦礫と化していくのを目撃した精神的外傷をステンドグラスを作るガラス職人となって解消しようとした若い時代を持っていることを、結びとして付け加えておきたい。




球と迷宮―ピラネージからアヴァンギャルドへ (PARCO PICTURE BACKS)

球と迷宮―ピラネージからアヴァンギャルドへ (PARCO PICTURE BACKS)

ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た (講談社学術文庫)

ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た (講談社学術文庫)

パワー・インフェルノ―グローバル・パワーとテロリズム

パワー・インフェルノ―グローバル・パワーとテロリズム

速度と政治 (平凡社ライブラリー)

速度と政治 (平凡社ライブラリー)

*1:ブルーノ・タウト

*2:この辺りの事情は、『球と迷宮』「ワイマールドイツの社会政策と都市」の項に詳しい。

*3:9・11という世界的事件への夥しい言及の中に、わたしたちは優れた文学の言葉をいくつか見出すことができる。WTCの惨劇をわずか一マイルほどの距離から夫婦で目撃したジョン・アップダイクは、二つの直喩を使った簡潔な一節を含む文章を、早くも一週間後に発表した。「一マイルの空中を悲鳴のようなきしむ音と鈍い打撃音がわたってきて、それはエレベーターのようにまっすぐに崩れた。数千人もの死をいま目の当たりにしたのだ、と気づいた。自分たちが落ちていくかのように、わたしたちはおたがいにしがみついた。」 いくつか、とは書いたものの、9・11以降の「崩落の感覚」に関わる文学作品がさほど多くあるわけではない。ここでは、軽はずみな言及を慎むために、それらの数少ない貴重な作品とそれを読む機会に恵まれたことに、敬愛と感謝の念を抱くことができる平衡感覚と臓腑の温かさを、渝わらず自分が維持しているとだけ記すことにしたい。

*4:ヴィリリオガタリの交流については、つい先日松岡正剛こちらで興味深い言及を行った。

アカシアの花束

文壇というものが今もあるのか、あるとしてどこへ行けば見つかるのかは知らない。ただ月刊や季刊の周期で世に出るわずかな数の文芸誌に目を通していると、このさして広くない空間から出られそうもない類いの言葉の綾が複雑に絡み合って固着しているのが見えてきて、そのまま本を投げ出して、外の空気を吸いに出かけたいような気詰まりな思いになる。


できることなら他人の小説観のよろめきなどには関わりを持たず、ひたすら別の書物の刺激に開かれていればいいとも思うのだが、ごく少数の者にしかわからないように書かれた水面下の遣り取りの中に、本来どのようにでも書きうるはずの「小説の自由」を証し立てる息吹が含まれているとするなら、話は別だ。「現在最も勢いに乗っている文芸評論家はと問われれば、石川忠司前田塁と答えるのがいいだろう」とでもいった書き出しで、この繊細きわまりない「文芸批評のレッスル」に私的な解説を加えてみたい。


石川忠司が『現代小説のレッスン』の冒頭で披露している小説観は明快だ。まずベンヤミンを参照しつつ物語と小説との間に区分線を引き、物語から脱した近現代小説が歩むべき道を相反する二つの岐路に分岐させる。一つは、小説を「かったるい」描写や思弁的考察を導入することによって発展させる方向、そしてもう一つが「スカスカ」にならない程度に描写や思弁的考察を排除する方向で、この「非かったるさという尺度による排除」を著者は「純文学のエンタテイメント化」と命名して推奨し、十数人の作家の作品にこの現代小説特有の技法を読み取ることができると揚言する。この一見もっともらしい、そしてかなりもっともでもある序章を読んだだけで、一抹の雲行きの怪しさを感じることができれば、一廉の文学通と云ってもいいだろう。


不安はたちまち次章で的中することになる。石川忠司村上龍五分後の世界』の戦闘描写を採り上げて、主人公が「ガイド役」を果たしつつ「行為」にも参加することによって、時間の停滞しない「描写のエンタテイメント化」が実現していると述べるのに接すると、そこに同じ『五分後の世界』の文庫本に付された渡部直己の解説に真っ向から対峙しようとする闘争心と緊張を感じずにはいられないからだ。

描写こそ、あらゆる作家にとって世界に対する彼らの最大の原則でありかつ武器であるからだ。これはまた、世界と小説の言葉との関係を決定する最大の試金石でもある。渡部直己「『五分後の世界』解説」

両者が足並みを揃えて村上龍に称讃の拍手を送っていると読むのは、早合点というものだ。石川忠司が讃えているのは長大な戦闘描写から抽出してきた「叙述性」、渡部直己が讃えるのは長大な戦闘描写の「描写性」。後に語るように、「叙述性」と「描写性」は太古の昔からまるっきり対立する概念なのである。石川忠司が仕掛けたレッスルの極めつけは、村上龍を批評する途上で、わざわざ渡部直己が四半世紀も繰り返し参照してきたロブ=グリエの『嫉妬』を引き合いに出して、「歴然と病的かつストーカー的」と挑発していることで、バルトの構造分析に批評的基盤の多くを依拠している石川が、バルトによって見出されたこの「objectifな文学」を語り手の病理に還元できようはずもないことを知らないはずはない。すなわち、描写を「かったるい」ものとしてその排除を唱え、『五分後の世界』の戦闘描写をあべこべの「叙述性」の側に収奪しようとし、渡部直己の研究対象を矮小化してみせる石川忠司が、相手の名に故意にリファーしないという遣り口で言論上のレッスルに興じていることは、もはや隠しようもないのである。


といっても、それらはレッスルにすぎないのだから、悪役レスラーの「反則技」は教条主義的な非難に曝されるのではなく、それに相応しい娯しまれ方で娯しまれればいいだけのことだ。実際、『現代小説のレッスン』は読む者の破顔一笑をしばしば誘う仰天の「反則技」と放言に満ちており、初心の文学好きを惹きつける娯楽読み物としては無類の面白さを備えている。たとえば、「口承の物語の豊かさを回復するために、描写や思弁的考察などをかったるくない程度に排除したエンタテイメント化が、現代文学の一つの方向性である」という同書の論旨からして、複数のささやかな「反則技」の合わせ技なしには成立しようのないものである。


文芸批評史に従えば、口承のように語り手が現前するか否かによって小説言説がどのような変容を蒙るかは、石川が強調するような近現代文学特有の問題ではなく、プラトンのdiegesisとmimesisの対立にまでその起源を遡るべきものである。詩人が語り手として介在する叙述がディエゲーシス、詩人が語り手ではなくあたかも誰かになったかのように模倣して話すのがミメーシス。この詩法の二様式の水脈はともに演劇へと受け継がれたが、小説言説にもディエゲーシス性のいくらかが流れ込んで「叙述性」となり、ミメーシス性のいくらかが「描写性」を形成した。後にヘンリー・ジェイムズらがミメーシス=showingこそが小説の理想的な形態であるとして規範化しようと試みたのは、今からちょうど一世紀ほど前のことだ。そんなディエゲーシス/ミメーシスの二項対立的小説観を足元から突き転ばせてしまったのが、20世紀後半の不可逆的な「言語論的転回」だった、と急ぎ足の要約をしても問題ないだろう。以後、有為の文学者が言葉を探り当てようと試みているのは、この「ミメーシスの果て」の位相においてであり、「神は細部に宿る」という神学的な俗諺に飽きたらず、かといって渡部直己の批評や金井美恵子の小説は党派抗争上の理由から回避したいというのなら、保坂和志の小説や茂木健一郎の文学へのアプローチ*1を、「ミメーシスの果て」に刻まれた貴重な成果として挙げることもできる。


となると、終わったはずのディエゲーシス/ミメーシスの二項対立の一項に「現代文学」を押し込めて、「口承の物語の豊かさの回復」に適した演劇や映画の仕事を「現代文学」の問題にすり替え、「現代文学」が避けて通ることのできない「言語論的転回」以後の言葉のあり方には無視を決め込む『現代小説のレッスン』の論旨は、各論の奇天烈な暴言ともども、やはりレッスルじみた破天荒な熱気の産物*2であると結論づけてもよさそうだ。


ところで、このレッスルには続きがある。「小説の設計図(メカニクス)」という一種の文芸時評を連載している前田塁が、連載誌上で印象深い応答を行ったのだ。コップの中の狭い世界のことだから、文学上の隠し事をするのは難しい。同音で振るべきところを異音類義語のルビを振り当てて複数の文脈を接合させるというレトリックが、前田塁の造詣の深い批評文に時折姿を現すのは、現代思想系の長原豊の影響というよりも、渡部直己の批評をいくらか受け継いでいるからなのだろう。


その前田塁が「アカシアの花束、あるいは「かったるさ」の擁護のために」という題を付して応答したのは、感動的な光景だった。しばしば誤って「ミモサ」と呼ばれるアカシアの切花が南フランスの名産品であり、その国に住む世界的な作家の作品名でもあることに気がついた読者はそれほど多くなかったかもしれない。けれども、前田塁が時評中で『現代小説のレッスン』の魅力を正確に捉えつつ、小説の豊かさを排除する方向性を牽制するといった良識的な振る舞いだけではなく、続けざまに村上龍高橋源一郎保坂和志阿部和重舞城王太郎笙野頼子らのすべてを石川忠司が越えたと絶賛したのには、読む者をはっと揺さぶりたてる何かがあった。一冊の新書がこれらの固有名詞の仕事のすべてを、しかも同時に凌駕するということは考えられない。この破格の過褒は何に由来するのだろう。


すると、どうしてこの時評のタイトルに「花束」という語が含まれているのかが読めてくるような気がする。前田塁は、石川忠司の仕掛けてきた「反則技」交じりのレッスルには応じることはできないという意思表示として、レッスルに気づいた素振りすら見せずに襟を正して「贈与の花束」を贈ったのではないだろうか。そう思い描くことは、いささか活劇的に過ぎるだろうか。いずれにしろ、文学は生者の群れ猿的抗争のための場所ではなかったはずだ。そこで用いられた「アカシアの花束」という言葉が、同時に『アカシア』を世に有らしめ、相次いでこの世を去った作家と翻訳者に手向けられたものであることは想起されてもいい。時評の末尾は、同じ作家と翻訳者による『フランドルへの道』の長い引用によって閉じられている。


「コップ一杯の水が世界を明るくする」という詩句を綴ったのは誰だっただろう。コップの中のレッスルに興じるのではなく、コップに水を湛えて花束を活け、死者の遺した無数の言葉のありかと、それらの言葉を享受した上でしかもどのようにでも書きうるという小説の自由の方向へ、いくらかの畏怖をもってまなざしを返すこと。本格的な文芸評論を上梓して独自の批評的資質に見合った評価を勝ち得るまでの、おそらくはそれほど永くない間、前田塁という文芸評論家はこの「小説の自由」へ通じた贈与と哀悼の批評的挙措によって記憶されることになるだろう。



アカシア

アカシア

かくも繊細なる横暴―日本「六八年」小説論

かくも繊細なる横暴―日本「六八年」小説論

エッセ・クリティック (晶文全書)

エッセ・クリティック (晶文全書)

*1:「印象批評」という四文字の名には罠がある。印象による批評と印象を対象とする批評とは区別して考えてみたい。茂木健一郎の仕事は後者である。

*2:大江健三郎を「夜郎自大なさもしい色気」の持ち主としたり、宮内勝典を「間抜けな左翼文学者」とする罵倒芸は退屈だが、日本語の「ペラさ」をまくし立てた後、「いったんペラい日本語に依拠してしまえば、力み返った言葉遣い、度し難い妄想、観念的な領土拡張意欲などなどは、もれなく自動的についてくると言ってかまわない」などと一元決定的に断言してしまうさまは、大方の読者の微笑を誘うにちがいない。本書の「反則技」の白眉は、近代小説が「キリスト教狂信者が神の出現を仮構した狂ったロジック」によって構成されているという仰天の陰謀論的な分析を前提にして、その「小説の神」が水村美苗の小説で「窃視者化」して、登場人物から隠然たる「資本主義的搾取」を行っていると暴き立てる終章にある。このような荒唐無稽な論証の途上で「明らかな間違いだ」と非難された丸谷才一がまことに気の毒だとは感じるものの、石川忠司の卓越したユーモアの資質を伝えて余すところがない一章である。面白いので是非一読を。

バザールの歩き方

ABCとはさまざまな物事の初歩を示す言葉だが、ネット人口が今よりずっと少なかった二年前に、やはりネット上の初歩的な言動マナーをめぐってABC三者の功利的バランスを測定する思考実験がwebで流行したことがあった。


「ネット上の往来の少ない場所でAさんがひっそりと綴っていた日記に、賑わっている人気サイトのBさんがリンクを張ったせいで、急増したアクセスに驚いてAさんが日記を閉じてしまい、それまでひっそりとAさんの日記を見守っていたCさんが二度と読むことができなくなった」というのがその設例で、提言者の松谷創一郎はBさんが「儀礼的無関心(市民的無関心)」を払ってリンクしないべきではなかったのか、という問題提起を行って論議を呼んだ。この設例では「誰も幸せになっていない」事態を引き起こしたのがリンク行為だったので、議論はネットにおけるlinkabilityとそれを制御する技術論の方向へ発展し収束したのだが、後に社会学者の北田暁大が「ネットにおいて可能な公共性をめぐる倫理的な問題提起」だったと捉え直し、この問題は幽霊のように繰り返し回帰してくるはずだと述べたのはとんでもなく正確だった。


その後、匿名のネットワーカーがコメント欄に殺到したり、サイト運営者の実名を暴いたりしてサイトを閉鎖に追い込むという暴力的行為がネット上で発生し、「ブログの終焉」という大袈裟な言葉まで取沙汰されるに及んで、問題のより基底近くに、リンク行為の是非よりもはるかに一般化された問いが横たわっているのが、多くの人々の目に明らかになったからだ。すなわち、「他人の自由や権利を侵害していない人間を、人的資源や情報資源を極端に集中させるという圧力によって排除し、その表現の自由や権利を侵害する権利が、果たして排除する側にあるのだろうか」という問いである。この根底的な問いに向き合うには、「儀礼的無関心」という概念をその近傍にある「慇懃な無視」(リチャード・ローティ)にあらかじめ置き換えておくと思考に弾みがつきそうだ。

(続く)




責任と正義―リベラリズムの居場所

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リチャード・ローティ ポストモダンの魔術師

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ロールズ正義論の行方―その全体系の批判的考察

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