硝子の雨

誰かに教えてもらった他愛のない話。日本語の話せないフランス人が皆「お菓子をちょうだい」という子供じみた催促を覚えて、この極東の異国にやってくるという噂を小耳に挟んだことがある。Donnez moi un gateau.とフランス語でおねだりすると、日本語の「どうもありがとう」に響きが通じるので、旅行者はきまってそんな風に礼を言うというのだ。異国から来た大男が歓待に応えて日本語でお礼を言っているはずが、実は母国語でお菓子をおねだりしているという二重言語の想像図は、想像する人を微笑ませずにはおかない。


un gateauというフランス語の守備範囲は日本語のそれよりも広く、クッキーからケーキまで小麦粉でできる菓子類のほとんどすべてをこの一語で指し示すらしい。ちょうど昨今、菓子職人とケーキ職人という日本語がパティシエという一語の外来語に取って代わられようとしているのと変換規則が似ている。言葉は無数の綾で現実と結びあい不断に結び変わっていくので、新しい言葉はきまって新しい現実と連動して生まれてくる。したがってパティシエという新しい通称に呼応して、それにふさわしいガトー作りの新旗手が登場するのは自然な成り行きで、ある朝の新聞の一角に新進パティシエのエッセイが飾られていたのを、ぼくは事件としてではなくやはりエッセイとして読んだのだった。


むしろ気に懸かったのは、フランスでクプ・ドゥ・モンドを獲ったこの超絶技巧の持ち主が紙面では「シンプリシテが勝利する」と力を込めて繰り返していることで、その対照の妙に目を止めているうちに、曖昧だった既視感がゆるやかに記憶の輪郭をなして浮かび上がってきた。ある冬にそのパティシエの店とは知らずにケーキを買ったことがあったのを思い出したのだ。6、7年前のことになる。彼女が予約したケーキを持ち帰ってみると、クリスマスなのにデコレーションのきわめて抑制された真っ白なケーキが現れた。世評が高いと聞かされていたので意外の感に打たれつつ賞味すると、これが嫌味のないすっきりと冴えた美味で、フォークがみるみるうちに進んでいく。これが人々の選ぶ美味しさなんだねと頷きあった記憶がある。


フランスに、一片のガトーをきっかけにして、主人公が恍惚となるまでに無意志的記憶の広がりに浸透されてしまう記念碑的作品があるのは、誰もが知るところだろう。名作の顰みに倣おうとするわけではないが、呼び醒まされたこの記憶の先に折り重なった枝々が伸びているのが見えるので、もう少し記憶の語るままにまかせたい。


二人でケーキを買いに行ったのは確かに小型の愛車だったはずだが、その記憶のそばで自転車の前輪がしきりに不安定に揺らめいているのは、パティスリーの近くの高級住宅街で令嬢として育てられた彼女が、ほとんど乗ったことのない自転車に乗って当時会いにきてくれていたからだろう。自転車くらい上手に乗れるのだと胸を張ってほんの数秒にも満たない両手放しを披露してくれたこともあったが、彼女の腕前は足首を挫くと自転車を漕ぎ出すことすらできなくなって、ぼくが後ろから走ってサドルを押してようやくふらふらと走り出すほどのものだった。ハンドルにしがみついているせいで振り返って手を振ることもできず、ひたむきに漕ぎ去っていく彼女の後ろ姿の愛らしさは、車に顎を砕かれたせいで親猫から見捨てられた仔猫を、死んでいくまで夜を徹して看病にあたった彼女の慈しみの深さと同じく、かつて確かにそこにあり、誰が何を言おうとも決して消すことのできないものだ。慣れない自転車に乗ったりしたせいで、きっと転倒する夢を何度か見たことだろう。悪夢に魘されて泣いたりしたことがなければ本当にいいのだけれど。


ぼくも中型二輪の免許を取ってからしばらくは、バイク事故を起こす夢に夜な夜な苛まれた。夜によってそれぞれ事故の顛末は異なるものの、どんな手立てを尽くそうが減速と操舵がまったく利かず、熱い鉄塊の暴走をどうにも食い止められないところが、夜毎の悪夢の共通項だった。砂塵のように波打って流れ去る風景を見透かしつつ、車列のルーフが閃かない間隙をめがけて、何度バイクを蹴ってダイブしたことだろう。


やがて反復強迫にも慣れはじめて、夢の中で「これは夢だ」とわかる明晰夢の態をなしてくると、背後の後部座席にいつのまにか誰かが跨って馴れ馴れしく話しかけてくるようになった。意味がわかるようなわからないような不安定な話しぶりからすると、相手はどうも見知らぬ女らしい。くすぐったそうな愛嬌のある声で「もうこれでいいでしょう」とか「そうするしかないよ」とか指示内容の判然としない指示語を含んだ科白を囁いて、背後からするすると両手を絡めてくる。あるとき、女の手のひらが顎の上まで迫り上がってきて、さもそうすることが当然であるかのように鼻を撫でまわすと、運転するぼくの顔を両手でぴったり覆ってしまった。


次の瞬間、バイクの行く手には早くもバイクが映り込んでいて、巨大なガラス建築が逃れようもなく立ちはだかっている。衝突。瞬時に衝撃でファサード一面のガラスが粒状破片*1となって、光り輝く雨のように降り注ぐ。ガラスの雨粒が落ちては跳ねて、動かなくなった人間の衣服を切り裂き、皮膚を傷つけて、燦然と跳ね回りつづける。


けれどもこういう時は夢見の常で、ガラスの雨を浴びてずたずたになった自分を見つめているもうひとりの自分がいるものだ。その自分が、これはいつか書かれるだろう小説の一場面にちがいない、忘れてはいけない、と遠ざかる意識の中で繰り返し自らに言い聞かせているうちに、卒然と目を醒ます。そんな夢を見たこともある。


しかし、目を醒ましたからといっても現実の世界へ戻ってきたとは限らない。目醒めて夢の外へ出たつもりでも、そこもまた別の夢の中なのかもしれないからだ。砂粒の数ほど無数にある夢の連鎖に囚われて、醒めても醒めても夢の中にしか目醒めることのできない男の悲劇を、かつてボルヘスは短編に書いた。醒めようとしても永遠に醒めることのできない夢こそ、究極の悪夢なのかもしれない。


もしあのガラスの雨を浴びた夢から醒めて、別の夢の中へ目醒めていたとしたら、ぼくはやはり件のガラス建築の前で、軽く頭を振って身体のあちこちをさすりながら起き出したような気がする。眼前でファサードのガラスが無傷のまま涼やかに光を透過させているのを見て、なんだ夢だったのかと安堵の溜息をついたりしながら。ただしおそらくそこでは新たな問題が生まれてもいて、それはたとえば、すでに固く閉め切られた建物の内階段を、さっきまで背後にいたはずの女がいそいそと地階へ降りていこうとすることであったりするだろう。慌てて駆け寄って手招きして彼女を呼び寄せるのだが、完全にガラスに隔てられているせいで、それ以上の何をすることもぼくにはできない。間近で見ると、見知らぬ女だったはずの女は、茫洋とした輪郭の中にもなだらかな肩を息づかせており、手に小体なハンカチを隠し持っているのが、なぜだか知っている女のような懐かしいような風情をかきたてる。声すら届けようがない疎隔にぼくが打ちひしがれて、他に言うべき言葉も思いつかずにDonnez moi un gateauと呼びかけたとしたら、ガラスの向こうに立っている彼女は、言葉に込められた意味の通りにぼくの唇を読み取ってくれるだろうか。


きっと願いどおりに言葉は伝わることだろう。仮にそんなことはありえないにしても、そう夢見ることくらいは許してほしいと誰彼にともなく乞いたい。何しろそれはぼくが夢見る夢の中の夢の中の夢の中で、もっとも切実に願われている光景の一齣なのだから。



失われた時を求めて(上)

失われた時を求めて(上)

失われた時を求めて(下)

失われた時を求めて(下)

*1:一般的なフロートガラスは破損するとステンドグラス様の大小さまざまな破片になるが、強化ガラスは破損するとほぼ全面がビーズ大の粒状破片になる。