狂った果実の行方

「59年の犬」を探し回った先が半世紀近く前の時代だったせいで、右も左もわからないとまではいかないものの、予想もしない史実に突き当たって危うくおでこをぶつけそうになることがあった。石原慎太郎大江健三郎が「若い日本の会」で政治的に連帯していたり、江藤淳も含めた三人で内輪の食事会を持ったりしていたというのはその一例である。当時「太陽族」を出現せしめて一世を風靡した石原慎太郎の小説群は、そこで何度か場違いに引用されるマラルメの詩句と同じく、現在の文学的環境のもとではいくらか虚ろな所在なさ気な表情を見せているが、脚本を手がけた『狂った果実』となるとどうしてこうも輝きが違うのだろう。トリュフォーをはじめとするヌーヴェルヴァーグの面々の賞賛を引かずとも、自分の唇を噛んだ女を見据えながら血を拭う裕次郎の獣じみた表情や、背後にある青臭くて放縦な時代のセンチメントが、この56年の映画の中でまざまざと生きているのが伝わってくる。


といっても映画の構造自体は原作の小説と同じくシンプルきわまりなく、ひとことで言えと命じられれば、「外へ出る機械」を兄弟で奪い合う映画だと言い切ってしまえるほどだ。石原裕次郎演じる豪胆な兄と津川雅彦演じる柔弱な弟が、避暑地にきた北原三枝演じる若い女を奪い合い、その対立の板挟みになって岡田真澄演じる兄弟の友人が狂言回しを演じるという表立った筋立ては、少年少女のような半世紀前の四人のうら若さに比べれば、格別の印象を訴えてはこない。


けれども、女がジャズクラブに見知らぬ男性とともに現われると、いよいよ映画は自らの主題が兄弟による「外へ出る機械」の争奪にあることを露わにしはじめる。作劇法の常套に従えば、独身のはずだった女が年配の外国人男性を伴っているところを目撃されたら、二人の間にある性・人種・年齢の懸隔を動力として、夫だと強がって見せた後に実は父だったとか、逆に父だと偽った後に実は夫だったとか、不倫相手に対する女の心理を組み込んだ劇が展開されるのが自然だろう。ところが、映画は女に短い告白の台詞を割り当てるのみで、頑として姦通小説にふさわしい心理劇を演じさせようとしない。兄が弟を出し抜いて夫婦の別荘に間男として通うようになっても、女は先に交際をはじめた弟にも、それより先に結婚した夫にも、不思議なくらい心理的葛藤を示そうとしないのである。


では、この心理劇を禁じられたヒロインとは何なのか。それを見極めるには、映画が幾たび女を「外へ出る機械」に連結したかを虚心に数え上げてみるといい。冒頭で汽車に乗って避暑ヘやってきた女は、遠泳で沖へ向かおうとするところを兄弟のモーターボートにつかまって水揚げされるし、パーティーに来てみれば招待主の弟に外へ出ようと促されて自動車で運び去られる。戸外ではきまって自転車に乗っているこの女は、さんざんモーターボートに繋がれて水上スキーを娯しんだ挙げ句、弟を騙して借り出してきた兄のヨットに連れ込まれて外洋へ向かうことになる。これら女と機械の度重なる連結の中で、映画の展開を力強く牽引するのは、弟によって勝手に乗り出された英国車と兄によって勝手に乗り出されたヨットの二つなのだが、そのどちらもが外国人の血を引く裕福な友人の元から屈託なく持ち出されたものであることを忘れてはいけない。そう、外国人の夫の元から抵抗なく奪い去られる不倫の若妻は、これらの機械と構造論的にまるで同じ位相に立っているのである。それだからこそ、映画の中で女と機械はああまでも親密に繋がって見せたのだ。


まさか、という笑いを含んだ疑いの声を人は洩らすかもしれない。だが信じられないという嘆息のこもったその一語は、むしろ原作のクライマックスの記述に向けられるべきだろう。そこでは、女との駆け落ちめいたヨット航行の途上にあった兄が、夜を徹してモーターボートで追走してきた異様な形相の弟に向かって、「お前の勝ちだ」という叫びとともに、あたかも奪い合っていた玩具の機械を投り出すかのように女を海へ突き飛ばしてしまうのである。もちろん映画はこのあまりにも筋肉質で粗暴な兄の言動を許しはせず、締まった筋肉の持ち主である石原裕次郎の節度あるつかみかかりを、気丈な面持ちの北原三枝によってきっぱりと振り払わせている。しかしかといって、幕切れ寸前ではじめて心理をあてがわれた女が、その直後に弟の名を叫びながら自らの意志で弟のボートめがけて海へ飛び込んだところで、とってつけたような心理劇がこの映画で成就するはずもなかった。


すでに猛々しく唸る弟のモーターボートは、何周もヨットの周囲を偏執的に旋回しつづけている。今や海上に白く毳立ったその円形の航跡は、あてどないヨットでの逃避行という兄と女のメロドラマの閉域を、これ以上ないほど鮮やかに浮かび上がらせている。あとは、これまで頑なにヒロインに心理劇を禁じてきたのと同じ機械的構造が作動して、「外へ出る機械」の運動が貫徹されるのを待つばかりだった。すなわち、モーターボートは女と兄を轢き、ヨットを破砕して、メロドラマの閉域を突き抜けてしまうのである。突き抜けてもなお、海面を叩いて飛ぶように外へ外へとモーターボートが駆動をやめない最終場面は、この機械仕掛けの映画が映し出したもっとも無慈悲でもっとも美しい映像だと言えるだろう。


さて、56年の『狂った果実』から過ぎること四半世紀強。89年になって唐突に10分間の「続編」が世に現われたことをここに付記しておきたい。「禁じられた果実」という類題を付されたその作品は、実は続編映画ではなく、ジョン・ゾーンというハードコア・ジャズの怪物が同映画にインスパイアされて創った楽曲である。サウンドトラックを手がけた武満徹の仕事とはまるで異なるものの、なかなかどうして聴き手を娯しませる奇天烈な音楽に仕上がっている。


もともとはデューク・エリントンの方法にヒントを得たというジョン・ゾーンの「ファイルカード方式」は、仲間と即興で膨らませたアイディアの断片を自在に繋ぎ合わせる作曲方法を指すらしいのだが、出来上がったジャズは明らかにジャズという固定観念を越えており、デューク・エリントンを偲ばせるような艶は微塵もないといっていい。五線と戯れる音符を息継ぎを交えて追いかけるのではなく、音符をベルトコンベア上に乱雑に並べて速度を上げたり下げたりしながら気儘に奈落へ消し落としていくような音楽だと言えば伝わるだろうか。そのキッチュさが耳に障らない程度に音量を絞って、ジョン・ゾーン機械的な音の斡旋と不意にきわまる凄まじい音の速度を聴いていると、これはこれであの機械仕掛けの青春映画の核心を大胆につかみ出した音楽だと思えてくる。


そして、この独創的な再生産を成し遂げたのが、離れた時代に離れた国から来た外国人であることをあらためて想起すると、映画にあった「外へ出る機械」の強靱な推進力の反映を、あるいは外部へ向けて突き抜けることの得難い貴さの継承を、海を越えて波及したこの変則ジャズの乱反響のどこかに探りあてようとして、知らず知らずのうちに聞き入ってしまうのだ。




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