竜頭をひねる

日本が北朝鮮工作員に占領されるという村上龍の新しい小説を読んで、とうとうあの永かった占領が終わったのだという感慨を深くした。占領によって占領が終わった。意味のもつれたこの短文の彼方には、陽当たりのいい文学史のメインストリームにありながら、人々に見出されなかったポストコロニアル文学の一道程が半世紀越しで伸びている。かつて敗戦後の米軍占領下で、村上龍の出現を早々に予告していた批評家がいたと切り出したなら、近未来小説の若い読者は歴史の方へ振り向いて耳を傾けてくれるだろうか。


「占領下の文学」と題されたその中村光夫のエッセイは、曖昧な「戦後文学」という呼称をより実質的な「米軍占領時代の文学」とリネームするべきだと主張した上で、まず文学における「1945年革命説」を屈託なく一蹴してみせる。

それ[戦後文学という呼称]は、「戦後」を「戦前」と対置することによつて、戦争といふものに何か文学を変質させる特別な作用があるやうな幻想をあたへます。中村光夫「占領下の文学」

そして、新しい文学を生み出すのに三十年かかったフランス革命明治維新の史実を拠りどころとして、「米軍占領がもたらした変革が新しい文学表現に結晶するには、40年代後半に生まれた子供たちが少なくとも20歳になるまで待たねばならない」と述べるのだが、ただそれだけの自然な歴史認識が、戦後文学派のやり場のない承認願望の噴出を招いたらしい。ある文芸評論家は「契約の年」という表現まで持ち出して70年代を待とうと挑発したのだが、歴史の審判は残酷なほどの明瞭さで文学史の上に振り下ろされた。


今日では、アメリカに象徴的に「占領」された文学の所在を問われれば、49年生まれで79年に『風の歌を聴け』を書いた村上春樹と、52年生まれで76年に『限りなく透明に近いブルー』を書いた村上龍の名前を、誰もが躊躇なく挙げるだろう。同じく今日いわゆるポストコロニアリズムの問題系が、往時の米軍占領を経て現在まで日本文学の「主流」に生きつづけていたことも、例えば支配国名を含んだ『アメリカン・スクール』や日本全土の占領そのものを描いた『五分後の世界』を挙げるまでもなく、文学史的事実と見ていい。


問題は、村上龍の新作『半島を出よ』がどのようにしてこのアメリカ支配のネオコロニアリズムパラダイムを終わらせたのかにあるのだが、さてそれを書きつけようとすると、その手をじわじわと抑え込みにかかろうとするような不穏な重力が辺りに立ち込める。いや書けない訳ではなく、『半島を出よ』を構成する三つの転回を数え上げれば話は早いのだし、手際よく「支配/被支配」という分数めいた記述式を使って、「アメリカ/日本」という戦後のマスター・ナラティヴ(主流の支配的な物語)を解体して「日本/朝鮮」を回復したとか、小説のナラティヴ・マスター(語り手)が日本人ではなく北朝鮮人であるとか、その両者が未来へ向かって歴史とは反対の「朝鮮/日本」を形成しているとか、シンプルな分析を並べることはさほど難しくはない。


実際、作者は三つの転回のうちひとつでも欠かすと時事小説の枠組みに捕まえられてしまうところを強靭な構想力で捻じ伏せ、その余勢で追いつきざまにポストコロニアリズムの硬直しがちなアイデンティティ・ポリティクスを肩を叩いて揺さぶったのだから、小説にしかできない達成がここにあり、村上龍にしか書けない小説がここにあると、人々は手放しの称讃を送ってもいいはずなのだ。それなのに、その喝采の手を縛るかのように何ものかが絡んでくるような気がするのは、中村光夫村上龍の間に不幸な結びつきかたをしたもうひとつの連繋があるせいだろう。


結び目は米軍占領以前にある。真珠湾攻撃の緒戦勝利に国民が浮き足立つ中、錚々たる知識人たちを糾合して「大東亜戦争」を正当化する思想的お墨付きを与えた<近代の超克>座談会の悪評が、遥か現代にまで轟いているのは無理からぬことだが、ここでは昭和で最も苛酷な言論環境の渦中にありながらも、討議を成立せしめている基盤そのものを、たちどころに「近代の疑惑」という一文で懐疑してみせた中村光夫の敬うべき思考の正確さを記憶しておけばいい。ここで語らずとも往時の言論の精細は、廣松渉の犀利な考察に満ちた著作で読むことができるから。


けれども、その『<近代の超克>論』を廣松渉が起稿した動機が、開戦によって近代を超克しうると信じた戦前の錯誤のありさまを見極めるためではなく、終戦から30年後に忽然と再出現した<近代の超克>論再興に対する牽制であったという序文を目にしてしまうと、その一文を読まなかったふりをして済ますことはできないような居心地の悪い引っかかりを感じる。さらに数十年後の90年代に、同じく「日本の近代化は終わった」というイデオローグを村上龍が務め上げたという事実が、脳裡をよぎるのをとどめようもないからだ。


いや、今度こそこの国の近代は終わったのだと語気を強めて断言しようとする論客もいるだろう。確かにこの半世紀の間に日本においてモダニティを産出する枠組みが組み替わったことは疑い得ないにしても、古典的な従属理論すら踏み越えて行けない国別の発展段階論に拠って「日本の近代化が終わった」と単線的に語る言説は、本当に今ここで生起していることを正確に伝える言葉なのだろうか。もし仮にそうだとするなら、たとえば誰の目にも明らかな、グローバリゼーションとナショナリズムの時ならぬ勃興とが同時に進行しつつあるという不可解な状況を把握する視角は、その一本の一次元的座標軸のどこから生まれてくるというのだろうか。


とはいえ、この未曾有の大作をものした小説家に読者は微笑を絶やす必要はない。すでに村上龍は「日本を主語にして文章を書くことは、その日本語の価値をスポイルすることだ」という台詞をどこかで口にしたことがあるはずで、あちこちの本を引っ繰り返してもその読み覚えのある台詞が見当たらないのは、あるいはそれこそが村上龍の唇を突いて出るべき台詞なのだとある読者に強く望まれているというありふれた空想的な事情があるのかもしれない。けれどもこの多弁な作家にプロンプターは不要だ。台詞の正確さという美徳を欠いた再演を観客はすでに見飽き果てていると記しておくだけで、すべては足りるはずだ。


きっと村上龍は次の舞台にもまた間に合うだろう。時に長編小説の構成が竜頭蛇尾であるという揶揄が飛んだりもするが、人々はその四字熟語の上二文字を切り出して、かつて作者が酒盃を傾けていた場と同じくリュウズと読むべきであることをそろそろ発見すべきである。ある小説の主人公が五分遅れた時計を携えて異世界に迷い込み、激しい戦闘の果てに五分時計を進めたように、村上龍が全存在をかけて竜頭をひねり時計を進めていくのを、依然として多くの読者が熱烈に注視しているのも無理はない。なぜなら、その遅れがちな時計はもうとっくに誰かひとりの時計ではないのであり、日本標準時の古陋な時計の竜頭を力ずくでひねって時を進めるのは、紛れもなく龍がなすべき仕事であると誰もが信じているからだ。




半島を出よ (上)

半島を出よ (上)

半島を出よ (下)

半島を出よ (下)

「近代の超克」論 (講談社学術文庫)

「近代の超克」論 (講談社学術文庫)