フラミンゴ渋滞

George Rodger

第二次大戦後に「ナチスの美神」としての象徴的な罪を背負い、コクトーとの共同制作を含むすべての映画の企画を握り潰されて、中傷と誹謗の泥の中を這いずり回っていたレニ・リーフェンシュタールを南方の灼熱の大陸に招き寄せたのは、アフリカの雄大な自然の中で狩りに明け暮れる日々を記したヘミングウェイの小説だったという。


しかし、当地の奴隷売買を活写するはずだった映画『黒い積荷』の製作は、呪われたかのように立て続けに不幸に襲われて雨季にずれ込んでしまい、とうとうスタッフの間に熱帯病が蔓延するに至って打ち切りを余儀なくされた。失意のレニはナイロビの病床で偶々手に取った雑誌のページに、後にマグナムの共同設立者となるジョージ・ロジャーの黒人アスリートの写真を見出して、卒然とカメラを持ってヌバ族の棲むスーダンへ旅立つことを決意する。そして、その地で撮ったフィルムのうち半分以上を郵便事故で失うという不幸に見舞われながらも、ヌバ族の原始の裸身が躍動した「肉体美」の写真はやがて陽の目を見て、レニは曲がりなりにも写真家への転身に成功するのである。


しかし、あのとき瀕死の病床にあったレニが、同じ写真家による「強制収容所のあったベルゲン=ベルゼンの廃墟を1945年に歩く少年」の写真を見ていたとするなら、30年代には女性として初めて山岳映画の監督業へ向かい、その直後からはナチ党のプロパガンディストとして「民族と美の祭典」へ向かった彼女は、次なる没入対象として何に駆り立てられ、どのような創造へ向かっただろうか。それとも写真の少年と同じように、ただ顔を背けて沈黙する静物とすれ違うだけに終わっただろうか。少年を撮ったカメラマンはこう記している。

小さな子供たちは彼らの母親たちの腐臭を放つ死体とは反対の方へ顔を背けている。子供たちにはもはや泣く気力すら残っていない。

この写真を二十世紀末になって『映画史』の一齣に引用したゴダールの目交には、虐殺される「死者」と生き残る「生者」が此岸と彼岸に引き裂かれていく光景が、かなり早くから拭いがたく焼き付いていたのだろう。


67年の『ウィークエンド』の前半に訪れるクライマックスでは、週末に出かけるプチブルたちのバカンス渋滞の車列がいつ果てるともなく蜿蜒とつづいた先に、無惨に散乱した子供たちの轢死体を映し出して、観る者の息をはっと呑ませる。のっけから「屑のなかに見出されたフィルム」と自己紹介され、プチブルの夫婦が不思議の国のアリスや親指小僧と出会ったりするうちに、処刑されたりゲリラ化したりして人肉嗜食へ至るという『ウィークエンド』の「妖怪性」には、ゴダールの「革命時代」を予告する政治的趣向があちこちに漲っているのだが、名高い事故渋滞の映像だけを抜き出してみると、ちょうどあのベルゲン=ベルゼンの写真を裏映しにしたかのような印象に捉えられて、ふと立ち止まってしまう。


それもそのはず。写真では、大人の「死者」が累々と横たわるそばで子供の「生者」が視線を背けており、映画では、大人の「生者」の車列が蜿蜒とつづく先で子供たちの「死者」が横たわっている。後方の車列がわけもわからずクラクションや苛立ちの声を浴びせて、遂に「死者」と向き合わないという視線の交わらなさも同じ。両者の構成要素はところどころで反転しつつも、酷似した布置の映像を構成しているのである。もちろんすべてが同じであるわけはなく、写真が状況を静止像で示しているのに対して、映画が54台もの数珠繋ぎを圧巻のワンショットでクレーン移動撮影しているという違いを挙げられもするのだが、それは詰まるところ写真と映画の違いに過ぎない。


人はしばしば顔を覆って視線を殺すことによって悲嘆の身振りを示す。この写真と映画が共に示しているのは、機銃掃射や自動車事故などの「戦争機械」が成し遂げる高速のスペクタクルではなく、高速の機械によって引き裂かれ取り残された人々の内奥に、臓腑がゆっくりと燃え落ちていくような滞らんばかりの緩慢な血流の速度があるということだろう。


映画の中の60年代フランスの田舎道と普段自分が車を走らせる道をうっかり同一視するわけではないが、都心のような「自然な渋滞」がほとんど発生しない田舎道で不意の渋滞に出くわすと、事故の映像を反射的に想起して身を固くしてしまうことがある。そんな時は、眼前に伸びる赤いテールランプの連なりを事故渋滞ではなく「フラミンゴ渋滞」だと勝手に解釈して、厭わしい予感を振り払うことにしている。一羽のフラミンゴが車列を堰き止めているというイメージは、まるっきり個人的な想像の産物なのだが、このイギリス育ちのフラミンゴがわが想像裡に棲みついたのはもう10年くらい前のことなので結構な長い付き合いではある。


想像上のロンドンでの顛末は別時に語ることにして、動物園のフラミンゴがやはりある種の「引き裂き」を強いられていることを、檻越しに観賞する人間は知っておいてもいいと思う。動物園で飼育管理されているフラミンゴは、遠くへ飛んでいけないように羽根の先を習慣的に鋏で切られつづけるのだそうだ。これを「断翼」と呼ぶらしい。


かつてヘミングウェイジープを駆って狩猟に没頭し、レニがランドローヴァーの転倒事故に遭って映画製作を断念したケニアでは、「断翼」を強いられたことなどあろうはずもない野生のフラミンゴが、今も数百万羽もの大群をなして渡り鳥の本性そのままにあちこちの湖沼を飛びめぐっている。その群れなす渡り鳥と同種族の檻の中の鳥が、もし遠くを飛ぶ朋輩を追わんとして動物園を逃げ出したなら、そのフラミンゴは水中微生物の色に染まった花のような翼をぎこちなくばたつかせて、空の高みを自在に飛ぶための訓練をしなくてはならないだろう。


原因不明の渋滞がもたらす時間の浪費と停滞感をどうやり過ごすかには十人十色の処し方があるのだろうが、動物園を逃げ出したフラミンゴが初めて見る自動車に驚いて車道で立ちすくんでいるのだと想像するのが、目下の自分には興趣が深い。渋滞の車列の先で、羽根を切られて飛べなくなったフラミンゴが何とか飛び立とうとして繰り返し翼をばたつかせている。そんなあどけない椿事と引き換えにするのだったら、こちらの方が動かなくなったガソリン仕掛けの鉄の檻にしばらく囚われたって苦にならないではないか。そう想像してみる。渋滞の原因がなかなかつかめず、車体を右に振って車列の先を見透かしても目ぼしい情報が依然として得られないとする。そんな時は、さらに少し想像を引き伸ばして、大きな問題はどこにもないんだと自分に言い聞かせてみたりもする。車列が停まっているということはフラミンゴは轢き殺されていないだろうし、飛べないにしたってガードレールを羽ばたき越えるのにそれほど時間はかからないはずだ。それに動物園の檻から逃れられさえすれば、飛べないフラミンゴの切り落とされた羽根はいずれまた再生して生え揃うにちがいないのだから。




The Last of the Nuba

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ケニア

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