文豪と水道

近隣の水辺を再生してそこに蛍や鮒を呼び戻そうという活動が、日本のあちこちで盛んになっているらしい。こうした自然回帰の動きは東京などの大都市でも進行しており、都市の再生を掲げた都市計画論が書店の一角を賑わせたりもしている。


中でも、石川幹子『都市と緑地』が、緑地を侵蝕し分断する「都市計画なき規制緩和」に歯止めをかけようと抵抗しているのに目が止まった。著者は欧米の都市形成の歴史を詳述して、東京にもパーク・システム(緑地の機能的構成)を織り込んだ都市計画を確立すべきだと説く。古都ボストンが自然再生型の河川改修によって豊かな緑の連鎖を築き上げ、それを市民がエメラルド・ネックレスと呼んで親しんでいることが、おそらく著者の念頭では強い輝きを放っているのだろう。同書は、都市に根づいている自然や歴史を人々の「共有資本」として再認識し、その豊かさを永続的に維持し、発展させ、受け継いでいく「生命都市」の基盤を構築すべきだという提言で結ばれている。


都市計画に携わることはもちろんできず、ただ本を読むことしかできないぼくは、都市と緑地の問題を木々を中心に考えるのではなく、すぐさまパルプ加工して紙々=書物を中心にして別の考えに思い至ってしまう。すなわち、この国に根づいている書物や歴史を人々の「共有資本」として再認識し、その豊かさを永続的に維持し、発展させ、受け継いでいく基盤を確立するには、どうすればいいのだろうか、という問いに。


もちろん簡単に答えを出せるわけはないが、書物という「共有資本」の豊かさをあらためて印象づけるくらいのことならぼくにもできるし、そのためには、ここで都市論と文学論の交錯する前田愛『都市空間のなかの文学』を採り上げてみるのもいいだろう。なにしろ同書の「廃園の精霊」という一章からも、明治初期に「都市と緑地」が拮抗した一場面が窺えるのだから、やはり書物というものの広がりは尽きないのだ。


批評の俎上に載せられているのは永井荷風の『狐』で、野狐を父が仕留める顛末を幼い「私」が見守るというだけの小説なのだが、そこから著者が縦横に走る三つの動線をつかみ出してくる手捌きは、この上なく緻密で繊細だ。まず手始めに、小説のあらすじから、父が「母なるもの」を象徴する狐を殺すことによって「私」の自立を代行したという劇を読み取る。続いて、幕藩体制の崩壊によって武家屋敷が軒並み廃園となっていた史実を明らかにし、その鬱蒼とした野生の「緑地」が荷風の新しい住居を脅かしていたことを浮き彫りにする。さらに、永井家が狐の標的となった養鶏を手がけていたのは、当時の内務省が養鶏を奨励していたからであり、しかも荷風の父が政府官僚だったからだという背景まで明らかにする。


この正確無比とも思える読解にすら、別の書物がページを貼り付けて思いがけない接ぎ木をするのが書物というメディアの面白いところで、水道をめぐる言説を洗いなおす吉田司雄*1は、荷風の父が上水道の普及を推進する要職にあったことを読みの前面に打ち出している。そして、「水道」を敷設する内務省衛生局の官僚が「古井戸」の近辺に棲む野狐を殺したという筋書きに、近代国家による生命管理の意志を読もうとするのである。


これらの荷風の短編をめぐる諸説に、ここで別の一ページを付け加えたいと思う。荷風森鴎外に師事していたことは知られているが、軍医森林太郎荷風の父がいた市区改正委員会を援護する論陣を張っていたことはあまり知られていない。林太郎は「市区改正ハ果シテ衛生上ノ問題ニ非サルカ」という挑発的な反語を冠した啓蒙文で、コレラなどの伝染病の蔓延を防ぐには、帝都をあげて上下水道の大々的な整備を挙行するしかないと熱弁をふるった。ドイツから帰国した直後、鴎外の「戦闘的啓蒙」と呼ばれる時期の話である。これと符節を合わせるかのように、市区改正委員会も抜本的な上下水道整備の必要性を調査報告するのだが、財政難から上水道のみが優先され、下水道整備が開始されるまでにはとうとう二十年もの歳月がかかってしまったらしい。


大正に入って下水道が敷設されると、荷風や鴎外が住んだ山の手の下水は、雨水とともに皇居を迂回して芝浦ポンプ場*2へ集められ、そこから品川湾の第七台場沖*3へ放流されるようになる。当時は、品川駅のすぐそばまで海岸線が迫っており、そこから飛び石がジグザグに湾内を横切るように、六つの海上砲台場が並んでいたのである。はるか百年後、大きく塗り変えられた現在の地図を眺めると、第七台場は小学校になり、第四台場は天王洲の一角を形成し、第一台場と第五台場は品川埠頭に併合され、第二台場は取り崩されて海底に消えてしまったことが見てとれる。辛うじて第六台場と第三台場が史跡に指定され、「お台場」と通称されて砲台場としての面影を残すばかりである。*4


荷風の小説で狐が出没した辺りは、水道町という名で現在の地図上に残っている。一方、二人の文豪が明治国家揺籃期に上下水道を敷設せんとする近代的意志によって繋がっていたという史実は、その水道の果てで、埋立地に併呑されたり、海底に消えたりした歴史上の構築物と同じく、人々の記憶から拭い去られてしまったようだ。


都市空間のなかの文学 (ちくま学芸文庫)

都市空間のなかの文学 (ちくま学芸文庫)

*1:小森陽一紅野謙介高橋修・編『メディア・表象・イデオロギー』より。

*2:現在の港区港南にある芝浦水再生センターはその後身。

*3:水道史には第七台場と記されているが、より正確には、埋立てただけで工事中止となった海上の第七台場の代替として、陸地に築造された御殿山下台場を指すと思われる。

*4:冒頭で言及した石川幹子が、その第六台場と第三台場を水と緑を有機的に構成することによって再生しようという都市計画を提案しているのは、興趣をそそられる偶然である。