『革命的な、あまりに革命的な』

現在『LEFT ALONE』という映画が全国を巡行しつつ公開されているが、その出発点となった絓秀実『革命的な、あまりに革命的な』は、内ゲバを含む思想史論的な劇物と革命への執拗な情念が填まった刺激的な書物であり、それゆえ読み手に慎重な取り扱いを要求する厄介な書物でもある。実際、ある世代のある党派に限定したこの当事者証言を前にして、「部外者」の読者が取り扱いにうろたえ、「ある種の人々の回顧録にすぎない」「現在なぜ1968年なのかわからない」という投げやりな呟きとともに脇へ押しやってしまうこともあるらしい。


けれども、展開されているのはあくまで当面の陣地戦にすぎず、その戦況(たとえば小熊英二『<民主>と<愛国>』が68年を鶴見俊輔的なもので代表させたことに対して、絓秀実が華々しく地歩を奪還しようとする様子)だけに目を奪われて、本書の戦果をはじき出そうとするのはいささか早計だと思う。68年革命論はこの国の「ニューレフト」の陣営がようやくにして築いた橋頭堡なのだから、本書のアクチュアリティは、「世界革命の一環としての68年革命論」が、今後どのような思想に対してどのような闘争を挑みうるのかに、そのほとんどが懸かっていると言えるだろう。

われわれの視点も(…)今なお日本において支配力をふるっている「戦後というパースペクティヴ」(広義の「1945年革命説」)―――それは、われわれの「反戦」=「反米」意識をも規定する―――への批判をも内包している。

目敏い読者は、引用の一節の示す方向に、敵陣へ向けて掘り進められようとしている一本の地下塹壕の伏線をすでに読んでいるかもしれない。




革命的な、あまりに革命的な―「1968年の革命」史論

革命的な、あまりに革命的な―「1968年の革命」史論