ぼくがまだ学生だったある日の夕刻、大学から自転車で下宿に帰ると、玄関先で何かが硝子の破片のように光ったのが目に入った。手にとってみると、それは硬貨よりも小さい昆虫で、黒い楕円の体の尻を鮮緑色に明滅させている。螢を見たのはそれが初めてだった。逃れようともせず、ただ明滅しつづける蛍を両手で庇いながら、ぼくはどうして自分の玄関先にこの輝かしい昆虫が出現したのだろうと頭を悩ませたものだ。螢はいったいどのような旅の果てに、アスファルトで塗り固められた住宅地の一角を訪問するに至ったのだろうか?


その答えは、思いがけず翌夏の読書中に見つかった。ある短編小説が、近所の高級ホテルが客寄せのために庭園に螢を放すのだと教えてくれたのだった。「螢」と題されたその小説では、螢は主人公のもとを離れて飛び去り、あたかも主人公が直面を余儀なくさせられた生死の交歓そのままであるかのように、宵闇の中に光の軌跡を描き出して、俄かには消しがたい残像を定着させる。


一方、わが眼前であえかな光を放っていた螢はというと、飛び立つどころかみるみるうちに輝きを失い、15分もしないうちにあっけなく息を引き取ってしまった。手の上には、輝くことも羽搏くこともない一片の黒い有機物があるばかりだ。この不意の絶命にすっかり意気阻喪させられながらも、ぼくは他に持って行き場のない死骸を、夜の散歩道の途中にある水辺まで、てくてく歩いて棄てに行ったのだった。


それから十年以上経った現在でも、夏が近づくとその高級ホテルは螢を庭園に放つ行事を催すという。ぼくはぼくで、当時ホテルの広大な敷地をぐるりと周回して散策するうちに染みついた「夜間歩行」を、現在でも遠方の地で生活習慣として維持している。


都心のそれよりも遥かに暗い並木道を歩いていると、夜の樹々が風に煽られて、昼には聞かれないような激しいざわめきを立てるのにしばしば出くわす。その音の激しさに耳朶を打たれて、あたかも降りかかってくる悪夢を振り払おうとするかのように、いつのまにか身構えて拳を固くしていることすらある。


そんなときふと握りしめた拳を見ると、その中の空隙に、またしてもあの死んだ螢がうずくまっているのではないかという奇妙な錯覚に捕らえられそうになる。いまだに自分はあの螢を葬りにいくために夜を歩みつづけているのではないだろうか? いや、正確に言うとこの錯覚はもう少し悪夢に似ている。きっとこの夜の先へ葬らなくてはならないものは、水辺に辿りつけずに死んだ螢だけではないにちがいない。そんな気がしてならない。もっと耳を澄まさなくてはならない。一閃のうちに人々の心をとらえたまま輝き尽きた声や、人々に届かないまま圧し殺されねばならなかった言葉たちの、やり場のない数限りない音の泡立ちを、ひとり聞きうる限り聞き届けて、流れやむことのない水辺へ葬りに行こうとしている。そんな風に思いのままに錯覚の襞を押し広げながら、十数年越しの夜間歩行を続けることがある。




螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)