アカシアの花束

文壇というものが今もあるのか、あるとしてどこへ行けば見つかるのかは知らない。ただ月刊や季刊の周期で世に出るわずかな数の文芸誌に目を通していると、このさして広くない空間から出られそうもない類いの言葉の綾が複雑に絡み合って固着しているのが見えてきて、そのまま本を投げ出して、外の空気を吸いに出かけたいような気詰まりな思いになる。


できることなら他人の小説観のよろめきなどには関わりを持たず、ひたすら別の書物の刺激に開かれていればいいとも思うのだが、ごく少数の者にしかわからないように書かれた水面下の遣り取りの中に、本来どのようにでも書きうるはずの「小説の自由」を証し立てる息吹が含まれているとするなら、話は別だ。「現在最も勢いに乗っている文芸評論家はと問われれば、石川忠司前田塁と答えるのがいいだろう」とでもいった書き出しで、この繊細きわまりない「文芸批評のレッスル」に私的な解説を加えてみたい。


石川忠司が『現代小説のレッスン』の冒頭で披露している小説観は明快だ。まずベンヤミンを参照しつつ物語と小説との間に区分線を引き、物語から脱した近現代小説が歩むべき道を相反する二つの岐路に分岐させる。一つは、小説を「かったるい」描写や思弁的考察を導入することによって発展させる方向、そしてもう一つが「スカスカ」にならない程度に描写や思弁的考察を排除する方向で、この「非かったるさという尺度による排除」を著者は「純文学のエンタテイメント化」と命名して推奨し、十数人の作家の作品にこの現代小説特有の技法を読み取ることができると揚言する。この一見もっともらしい、そしてかなりもっともでもある序章を読んだだけで、一抹の雲行きの怪しさを感じることができれば、一廉の文学通と云ってもいいだろう。


不安はたちまち次章で的中することになる。石川忠司村上龍五分後の世界』の戦闘描写を採り上げて、主人公が「ガイド役」を果たしつつ「行為」にも参加することによって、時間の停滞しない「描写のエンタテイメント化」が実現していると述べるのに接すると、そこに同じ『五分後の世界』の文庫本に付された渡部直己の解説に真っ向から対峙しようとする闘争心と緊張を感じずにはいられないからだ。

描写こそ、あらゆる作家にとって世界に対する彼らの最大の原則でありかつ武器であるからだ。これはまた、世界と小説の言葉との関係を決定する最大の試金石でもある。渡部直己「『五分後の世界』解説」

両者が足並みを揃えて村上龍に称讃の拍手を送っていると読むのは、早合点というものだ。石川忠司が讃えているのは長大な戦闘描写から抽出してきた「叙述性」、渡部直己が讃えるのは長大な戦闘描写の「描写性」。後に語るように、「叙述性」と「描写性」は太古の昔からまるっきり対立する概念なのである。石川忠司が仕掛けたレッスルの極めつけは、村上龍を批評する途上で、わざわざ渡部直己が四半世紀も繰り返し参照してきたロブ=グリエの『嫉妬』を引き合いに出して、「歴然と病的かつストーカー的」と挑発していることで、バルトの構造分析に批評的基盤の多くを依拠している石川が、バルトによって見出されたこの「objectifな文学」を語り手の病理に還元できようはずもないことを知らないはずはない。すなわち、描写を「かったるい」ものとしてその排除を唱え、『五分後の世界』の戦闘描写をあべこべの「叙述性」の側に収奪しようとし、渡部直己の研究対象を矮小化してみせる石川忠司が、相手の名に故意にリファーしないという遣り口で言論上のレッスルに興じていることは、もはや隠しようもないのである。


といっても、それらはレッスルにすぎないのだから、悪役レスラーの「反則技」は教条主義的な非難に曝されるのではなく、それに相応しい娯しまれ方で娯しまれればいいだけのことだ。実際、『現代小説のレッスン』は読む者の破顔一笑をしばしば誘う仰天の「反則技」と放言に満ちており、初心の文学好きを惹きつける娯楽読み物としては無類の面白さを備えている。たとえば、「口承の物語の豊かさを回復するために、描写や思弁的考察などをかったるくない程度に排除したエンタテイメント化が、現代文学の一つの方向性である」という同書の論旨からして、複数のささやかな「反則技」の合わせ技なしには成立しようのないものである。


文芸批評史に従えば、口承のように語り手が現前するか否かによって小説言説がどのような変容を蒙るかは、石川が強調するような近現代文学特有の問題ではなく、プラトンのdiegesisとmimesisの対立にまでその起源を遡るべきものである。詩人が語り手として介在する叙述がディエゲーシス、詩人が語り手ではなくあたかも誰かになったかのように模倣して話すのがミメーシス。この詩法の二様式の水脈はともに演劇へと受け継がれたが、小説言説にもディエゲーシス性のいくらかが流れ込んで「叙述性」となり、ミメーシス性のいくらかが「描写性」を形成した。後にヘンリー・ジェイムズらがミメーシス=showingこそが小説の理想的な形態であるとして規範化しようと試みたのは、今からちょうど一世紀ほど前のことだ。そんなディエゲーシス/ミメーシスの二項対立的小説観を足元から突き転ばせてしまったのが、20世紀後半の不可逆的な「言語論的転回」だった、と急ぎ足の要約をしても問題ないだろう。以後、有為の文学者が言葉を探り当てようと試みているのは、この「ミメーシスの果て」の位相においてであり、「神は細部に宿る」という神学的な俗諺に飽きたらず、かといって渡部直己の批評や金井美恵子の小説は党派抗争上の理由から回避したいというのなら、保坂和志の小説や茂木健一郎の文学へのアプローチ*1を、「ミメーシスの果て」に刻まれた貴重な成果として挙げることもできる。


となると、終わったはずのディエゲーシス/ミメーシスの二項対立の一項に「現代文学」を押し込めて、「口承の物語の豊かさの回復」に適した演劇や映画の仕事を「現代文学」の問題にすり替え、「現代文学」が避けて通ることのできない「言語論的転回」以後の言葉のあり方には無視を決め込む『現代小説のレッスン』の論旨は、各論の奇天烈な暴言ともども、やはりレッスルじみた破天荒な熱気の産物*2であると結論づけてもよさそうだ。


ところで、このレッスルには続きがある。「小説の設計図(メカニクス)」という一種の文芸時評を連載している前田塁が、連載誌上で印象深い応答を行ったのだ。コップの中の狭い世界のことだから、文学上の隠し事をするのは難しい。同音で振るべきところを異音類義語のルビを振り当てて複数の文脈を接合させるというレトリックが、前田塁の造詣の深い批評文に時折姿を現すのは、現代思想系の長原豊の影響というよりも、渡部直己の批評をいくらか受け継いでいるからなのだろう。


その前田塁が「アカシアの花束、あるいは「かったるさ」の擁護のために」という題を付して応答したのは、感動的な光景だった。しばしば誤って「ミモサ」と呼ばれるアカシアの切花が南フランスの名産品であり、その国に住む世界的な作家の作品名でもあることに気がついた読者はそれほど多くなかったかもしれない。けれども、前田塁が時評中で『現代小説のレッスン』の魅力を正確に捉えつつ、小説の豊かさを排除する方向性を牽制するといった良識的な振る舞いだけではなく、続けざまに村上龍高橋源一郎保坂和志阿部和重舞城王太郎笙野頼子らのすべてを石川忠司が越えたと絶賛したのには、読む者をはっと揺さぶりたてる何かがあった。一冊の新書がこれらの固有名詞の仕事のすべてを、しかも同時に凌駕するということは考えられない。この破格の過褒は何に由来するのだろう。


すると、どうしてこの時評のタイトルに「花束」という語が含まれているのかが読めてくるような気がする。前田塁は、石川忠司の仕掛けてきた「反則技」交じりのレッスルには応じることはできないという意思表示として、レッスルに気づいた素振りすら見せずに襟を正して「贈与の花束」を贈ったのではないだろうか。そう思い描くことは、いささか活劇的に過ぎるだろうか。いずれにしろ、文学は生者の群れ猿的抗争のための場所ではなかったはずだ。そこで用いられた「アカシアの花束」という言葉が、同時に『アカシア』を世に有らしめ、相次いでこの世を去った作家と翻訳者に手向けられたものであることは想起されてもいい。時評の末尾は、同じ作家と翻訳者による『フランドルへの道』の長い引用によって閉じられている。


「コップ一杯の水が世界を明るくする」という詩句を綴ったのは誰だっただろう。コップの中のレッスルに興じるのではなく、コップに水を湛えて花束を活け、死者の遺した無数の言葉のありかと、それらの言葉を享受した上でしかもどのようにでも書きうるという小説の自由の方向へ、いくらかの畏怖をもってまなざしを返すこと。本格的な文芸評論を上梓して独自の批評的資質に見合った評価を勝ち得るまでの、おそらくはそれほど永くない間、前田塁という文芸評論家はこの「小説の自由」へ通じた贈与と哀悼の批評的挙措によって記憶されることになるだろう。



アカシア

アカシア

かくも繊細なる横暴―日本「六八年」小説論

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エッセ・クリティック (晶文全書)

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*1:「印象批評」という四文字の名には罠がある。印象による批評と印象を対象とする批評とは区別して考えてみたい。茂木健一郎の仕事は後者である。

*2:大江健三郎を「夜郎自大なさもしい色気」の持ち主としたり、宮内勝典を「間抜けな左翼文学者」とする罵倒芸は退屈だが、日本語の「ペラさ」をまくし立てた後、「いったんペラい日本語に依拠してしまえば、力み返った言葉遣い、度し難い妄想、観念的な領土拡張意欲などなどは、もれなく自動的についてくると言ってかまわない」などと一元決定的に断言してしまうさまは、大方の読者の微笑を誘うにちがいない。本書の「反則技」の白眉は、近代小説が「キリスト教狂信者が神の出現を仮構した狂ったロジック」によって構成されているという仰天の陰謀論的な分析を前提にして、その「小説の神」が水村美苗の小説で「窃視者化」して、登場人物から隠然たる「資本主義的搾取」を行っていると暴き立てる終章にある。このような荒唐無稽な論証の途上で「明らかな間違いだ」と非難された丸谷才一がまことに気の毒だとは感じるものの、石川忠司の卓越したユーモアの資質を伝えて余すところがない一章である。面白いので是非一読を。