ゴールキーパー上空には映画

暗闇の中にいて光に覆い被さられるという意味では夢は映画に似ているが、夢を見ているときに身体のあちこちが酔っぱらったようにあたふたして動き回る身体感覚は、映画館の観客席では味わうことができない。それとも夢の中で歩き回ったり走ったりするのは、自分だけなのだろうか。夢中になって革張りのボールを蹴り回す夢を幼い頃からしばしば見る。身を乗り出そうとすれば足元が手応えなく浮き上がり、胸板をどちらへ向けようが肩の平衡さえとれない。そんな多方向の諸力の交錯する夢見がちな運動体が、まともなサッカーをプレイできるはずはないのだが、ゆるゆると横転しながら定まらない眼前の遠くへ、とにかく遠くへと首尾よくシュートを放った夢の醒め際、運河の水脈が地平をずたずたに裂いて遠くまで走っているのを、ちらりと見たような気がして目を醒ましたこともあった。


きっとその残像は、「ジーザス・クライフ・スーパースター」のトータル・フットボールの特質をその発祥地である「茎‐運河をそなえたリゾーム都市*1アムステルダムに関連づけた書物を、若い頃に好んで読んだことの遠い反響なのだろう。しかし、リゾームとまでは言いにくいにしても、たとえば野球よりも遙かに停止が少ないせいで範疇化や数値化を逃れた多様な動態でありつづけているサッカーという競技も、その発祥を辿ってみると、多人数が同方向を目指す単一の群れとなって、野を越え山を越えてボールを蹴り運んでいく祝祭に起源しているというから驚く。オフサイドとは文字通りその祝祭集団から脱落する行為を指したのだという。


したがって、近代サッカーは集団と目的地=ゴールをそれぞれ二等分して、一平面上に正対する2ベクトルとして向き合わせることによって、世界的な球技となりえたことになる。この一平面がどこまでも均一の緑に覆われたフラットな平面であることが、サッカーを愛していた頃の自分のささやかな不満だった。クロスカントリーの起伏を持ち込んだり、運河を縦横に引いたりするのは不可能だとしても、何とかしてピッチを平行に複数化したり、垂直の軸を加えたりして、立体化した都市型のサッカーを構想できないだろうか。想像力はすぐに返事をくれた。


誰も寄りつかなくなった取り壊し寸前の建築物を想像してほしい。おそらくそのn階とn+1階は、閉ざされた無数のドアが向き合った長い一本の廊下に貫かれているだろう。廊下の一方の端は階段で他階に通じており、もう一方の端にはエレベーターホールが据え付けられているが、エレベーターと連動して開閉するはずのホールの扉だけがない。そのせいで、矩形にくりぬかれた暗い吹き抜けが露わになっていて、大口を開けた闇の中を垂直にワイヤーが張り詰めているのが見える。n階、n+1階のその奈落への入口がゴールマウスだ。ゴールの反対側、センターサークルにあたる階段での攻防は、重力を味方にするn+1階側が圧倒的に有利になるので、ハーフタイムでエンドが替わるとはいえ、最初のコイントスが大きな意味を持ったりもする。ゲームは5対5ぐらいのストリートサッカーに近い人数構成で行われるだろう。ただしゴールキーパーが要らないのがこの想像上の立体サッカーの特徴だ。なぜならエレベーターのワイヤーに吊られているのはエレベーターボックスではなく、捕らえられて逆さ吊りに拷問されている男。ディフェンダーは敵が攻めてくると、昇降ボタンでその虜囚を呼びつけて、草サッカーでは誰もやりたがらない退屈なゴールキーパー役を務めさせる。逆さ吊りの男は、視野の天井に吸い付くように走り回る脚々やボールを、船酔いのような止みがたい眩暈とともに凝視しつづけることを強制される。


今から十年近く前に書きつけた創作ノートには、この男がどういう理由でどういう組織に捕らえられたのか複数のアイディアが詳細に記されているが、最終的にそのどれもの上を投げ遣りな削除線が横切ってしまったのは、当時、この想像上の立体サッカーと二重写しになっていたペルー日本大使公邸占拠事件を正確に読み解く力が足りなかったからだと思う。


武力決着から二年後、人質だった大使館員がノンフィクションを著して、武力突入時の現場の推移を多数の生々しい証言によって再構成した。ウィーン条約で不可侵のはずの大使公邸を急造トンネルで急襲した武力解決の実態から浮かび上がったのは、意外にも、突入側にあったあまりに「法外」な無思慮の強硬姿勢と、テロリスト側にあったあまりに無邪気な戦略的思考の欠如である。


運命を分けたのはトンネル掘削の発覚に対する対応だった。MRTAというゲリラ組織の頭首だったセルパは、床に耳をつけて軍事突入用のトンネルが掘られつつあるのを確認すると、非難声明を発表してペルー政府側との予備的対話を中断した。それだけならまだしも、一階で寝起きしていた日本人の人質を二階へ移動させ、一階を自分たちの居室にしてしまったのはどうにも致命的だった。おそらく、トンネルが武力突入のためではなく人質救出のために掘られていると勘違いしたのだろうと、当時二階へ移った著者は推測しているが、そんな子供らしい思い込みの虜になったのは、ゲリラ組織ナンバー2のロハスがかつて服役中に仲間に救出トンネルを掘ってもらって脱獄に成功した過去があったからなのかもしれない。


しかし、トンネルは脱獄のときのように同朋愛や友誼を通わせたりはしなかった。武力突入後、公邸内で射殺を逃れて身柄を拘束された少なくとも三人*2が地下トンネルの密室に連行されて「処刑」されたと複数の情報筋が語ったという。MRTA側がゲリラ兵士たち14名全員を射殺によって失ったのに対して、ペルー政府側の損失は人質1名特殊部隊2名の死亡に止まった。誰の目にも明らかな圧倒的な戦果の差は、国際社会に平和的解決や対話を軽んじる風潮をもたらすという更なる損失をも齎すこととなったのだから、当日昼食後にのどかにサッカーに興じることを選んだゲリラ兵士たちの想像力のなさは罪深い。たとえ平和的解決の道が残されている状況であったとしても*3、あらゆる種類の駆け引きは、一地点から見通せるような一平面上のみで起きるのではなく、たとえばその床平面の不意の爆破による爆殺をすら想定しうる多文脈的状況論的思考を要求してくる。やはり彼らはn+1階から圧倒的に不利なn階へ移動するべきではなかったのだ。


話はもうひと飛びする。アメリカW杯の地区予選最終試合で日本代表チームがロスタイムの失点によって敗退してからしばらく経った頃、どこをどう辿って知ったのかは忘れてしまったが、白金台のカタール大使館が移転すると聞きつけて、石油産出国らしい威容を誇る白亜の建築が取り壊されていくのを見物しに行ったことがある。写真が散逸してしまったせいで、あのとき鉄柵越しに見透かした崩壊途上の建物の記憶は朧だ。けれどもカタールの首都名を冠して「ドーハの悲劇」と呼ばれるフットボールナショナリズムの絡み合った挫折劇は、未だ確たる像を結ばない自分の想像の中*4では、あの「治外法権」下で蹴り合われる立体化した都市型サッカーの形をとって、今もロスタイムの逆転ゴールを狙いつづけているような気がするのだ。




封殺された対話―ペルー日本大使公邸占拠事件再考 (20世紀を読む)

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June 12 1998 -カオスの緑- [DVD]

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*1:ドゥルーズ=ガタリリゾーム

*2:著者はティト、シンシア、それと顔を確認できなかった男性コマンド一人が生きたまま拘束されていたのを目撃している。

*3:すでにセルパは幹部釈放の「闘争」を断念し、組織の温存を図るために「脱出」することを選択していた。

*4:充分な言葉で書き留めてやらなかった空想という奴は、反復夢のように繰り返し人を脅かしつづけるものなのかもしれない。未見であるのに強力に惹きつけられる映画のことを、jamais vueという言葉では足りずに上手な比喩で説明しようとして、あの宙吊りのゴールキーパーの上空にある矩形に切り取られた青空に似ていることに思い至った。よくはわからないが自分の存在と抜き差しならない結びつきがあり、それを手繰り寄せることで新たに鮮やかな視界が開けるような気がしてならず、映画なのに少しも遮蔽幕のようではなくて一群の鳥が羽ばたき抜けるほどに外へと通じている……。目下、自分の上空にあって心に懸かっているのは、青山真治間章に肉薄した『AA』という映画。